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10.最後のわがまま



 結局、和成は一睡もできないまま一夜を明かした。
 夜が明けて皆が起き出し、朝食の支度が整うと朝食の膳を持って紗也の部屋を訪れた。
 命の危険が伴う戦場に、紗也と同じくらい戦と縁遠い女官を連れてくるわけにはいかない。紗也の身の回りの世話は、必要最低限のもののみ和成が兼任することになっていた。
 寝不足でひどい顔をしているのを笑われるだろうと覚悟して扉を叩く。扉を開けて現れた紗也は更にひどい顔をしていた。
「紗也様、お顔がすぐれませんが」
 思わず口をついて出た和成の言葉に、紗也は目を細くすると怪訝な表情をする。
「それ”お顔の色が”の間違いじゃないの?」
「いえ、本当に”お顔が”すぐれません」
 和成が真顔で即答すると、紗也は泣き腫らしてむくんだ顔をさらに赤くして憤慨した。
「ちょっと! それが朝一に挨拶を差し置いて女の子に言う事なの?!」
 反論する元気がある事に、和成はホッと息をつく。
「都合のいい時だけ”女の子”にならないで下さいよ。朝食をお持ちしました。お部屋にお運びしてよろしいですか?」
 紗也はムッとした表情のまま、脇によけて和成を招き入れた。
「入って」
「失礼します」
 部屋に入って机の上に膳を置くと、和成は改めて紗也の顔を見つめた。
「ずっと泣いていらしたんですか? 私が殴られた事はそんなにあなたの心を痛めましたか?」
 紗也は気まずそうに俯いて、和成に背を向ける。
「見ないでよ。確かにあんなに怒った塔矢を見たのも初めてで怖かったし、私のせいで和成が殴られたのもつらかったけど、殴られただけじゃすまないんでしょ?」
「何の事ですか?」
 和成は静かにとぼけてみせる。長い髪を翻して紗也は勢いよく振り返った。
「知ってるんだから! ここって城と違ってまわりの音が丸聞こえなのよ。兵士たちが署名運動してるのが聞こえたの。私も署名しようと思って……」
「署名なさったんですか?!」
 言葉を遮り、和成は慌てて尋ねる。紗也は泣きそうな顔でフルフルと首を振った。
「ううん。させてもらえなかった。これは兵士用だからって」
 和成はひとまず、ホッと安堵の息をつく。
「無闇に署名なさってはなりません。あなたと我々では署名の性質が違います」
「何が違うの? 私も和成を助けたいのに」
 本格的にべそをかき始めた紗也を見て、うんざりしたように和成は顔をしかめた。
「もう、いい加減にご自覚下さいよ。あなたは君主なんですよ。あなたの署名は国の署名なんです」
 すると紗也はピタリと泣き止んだ。
「だったら、私が署名すれば一発で和成の罪を不問にできるんじゃないの?」
「そういう私情で行動なさるのもお控え下さい。独裁者になりたいのでしたら別ですが。それだと民はついて来ませんよ」
 紗也は再び涙目になって叫ぶ。
「じゃあ、どうしたらいいのよ!」
 穏やかな笑みを浮かべ、和成は紗也を見つめた。
「何も。あなたのお気持ちだけで充分です。私の処遇は軍と城の大臣たちが相談して決めるでしょう」
 和成の笑顔から目を逸らし、紗也は俯く。足元にパタパタと涙がこぼれた。
「そんな風に優しく笑わないでよ。調子狂うじゃない。どうしてそんなに冷静でいられるの?」
「まぁ、これだけまわりが騒いでいると当事者は逆に冷めてしまうみたいです」
 和成は頭をかいて苦笑した。そして未だ俯いている紗也に意地悪く言う。
「そろそろ泣き止んで下さい。でないとますますお顔がすぐれませんよ」
 途端に紗也は顔を上げて反撃した。
「なによ! 和成だって本当は気になって眠れなかったんじゃないの?! 目が赤いし、目の下にクマだってできてるし、お肌だって……」
 そこまで言って紗也は和成にかけ寄った。衿元を両手で掴んで引き寄せ、和成の顔を至近距離で凝視する。 和成はあわてて紗也を振りほどいた。
「な、なんですか? いったい」
「それ、ヒゲ?」
「は?」
 驚いてまっ白になっていた和成の頭が動き始める。
「あ……まぁ、一日以上経ってますしね」
 あごをなでると少しザラザラした。
「やだ。へん」
 顔をしかめる紗也に、和成は肩を落としてため息をつく。
「城に帰ったら剃りますよ」
「ダメ。今剃って」
「いいじゃないですか。私のヒゲがなにか迷惑かけたわけじゃなし」
「だって、かわいくないんだもん」
 言った直後、紗也はハッとして両手で口をふさいだ。和成の顔から笑顔が消え、いつもの不機嫌顔が現れる。
「かわいくなくったって一向にかまいません!」
 案の定、怒号が響いた。
 和成は紗也にクルリと背を向けた。俯いて拳を握りしめ、聞こえないほどの小声でつぶやく。
「ぜってー剃らねー。いっそこのまま打ち首になってこの首さらしてやる」
”打ち首”と声に出してみて一気に頭が冷静になった。未だに実感は湧かないが、程なくその時はやってくるのだ。
 城に帰ったら、もう二度と紗也に会うことはないだろう。紗也のわがままを聞くのもこれで最後かもしれない。
 そう思うと自分がこだわっている事など些末な事に思えて、寛大な気分になってきた。
 和成は大きく息をついて、紗也に向き直る。
「わかりました。剃ってまいります。一時間程で膳を下げにまいりますので、それまでごゆっくりとお食事をなさって下さい。それでは失礼します」
 そう言って頭を下げ、和成は出口へ向かった。
 そのあまりにも達観したような様が、紗也の不安をかき立てる。思わずかけ寄り、後ろから抱きついた。
 和成は立ち止まって、静かに問いかける。
「また、泣いていらっしゃるのですか?」
 紗也は首を振ってつぶやいた。
「和成。いなくなっちゃやだ」
「一時間したら戻ってきますよ。ちゃんとヒゲ剃って」
「ちがうの! 私が絶対助けるからね」
「私情で行動なさってはなりません。と申し上げたでしょう?」
「だって、右近にもお願いされたし」
「右近が? いつ……」
 少し考えて和成はふと思い出した。ゆうべ砦に戻ってきた時、立ち去り際に右近は紗也に言った。

「和成の事、よろしくお願いします」

 妙な挨拶をすると思ったらそういう意味だったのか、と謎が解けた。少し声を出して和成は笑う。そして、自分の身体に巻き付いた紗也の手をほどいた。
「さぁ、お離し下さい。ヒゲを剃る時間がなくなります。”みだりに男性の身体に触れてはなりません。はしたない女性だと思われますよ”って女官長に教わりませんでしたか?」
「教わったけど。和成はいいの」
 あっさりと即答する紗也に、和成はガックリ肩を落とす。
「私は男じゃないとでもおっしゃるんですか。だから”かわいい”んですか」
「男だけど、男とか女とか思ってないの」
「意味がわかりません。とにかく、もうこういう事なさらないで下さい。私がびっくりしますので」
 そう言うと再び頭を下げて、今度こそ部屋を出た。
 部屋の外に出たと同時に、和成は大きく息を吐き出した。ホッとしたと同時に顔に血流が集まってくるのを感じる。実は未だに鼓動が鳴り止まずにいたのだ。
 大きく二回深呼吸をすると、懐から電話を取りだして右近を呼び出した。




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