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10.月見酒 今宵も空はよく晴れている。 和成は半分ほど酒の入った湯呑みを持って、自室前にある中庭へと降りる石段に腰掛け月を眺めていた。 月は日に日に笑顔をほころばせる。もうすぐ半月、上弦の月。 一口酒を飲むと、月を見上げてつぶやいた。 「俺は人形かぁ……」 右近には命を与えられたばかりの人形だと言われた。 佐矢子には頭に電算機の詰まった機械の人形だと言われた。 自分なりに考えて、それは”心がない”という意味ではないかと思った。実際に心がないわけではない。他人の心が理解できていないのだ。 「正直で勇敢で優しい心を手に入れたら人間になれる……それってどういう意味だろう」 片膝を立て、その上で頬杖をつく。 お伽噺の人形は、事あるごとに星を見上げて願い事をしていた。 ”どうか、人間にして下さい” 願うだけでは叶わない。心を手に入れるまでは。お伽噺はそうだった。意味の分かっていない和成にも、心を手に入れる事はできないのだろう。 気が付くと湯呑みの中の酒がなくなっていた。もう少しつぎ足して来ようか少し考える。城内での飲酒は禁止されてはいないが、和成は紗也の護衛という職務の性質上、城内に限らず深酒はしないように言われている。 休みの日に城下へ右近たちと飲みに行っても、三杯以上飲んだことがない。元々酒に強いので、城内勤務になってからは酔うほど飲んだ事がないのだ。 色々なことを考えるのがもう面倒になって、今宵は気持ちよく酔ってみたい気分になっていた。 立ち上がって部屋に戻り、湯呑みに酒を注ぐ。瓶を持ち上げると中身が後わずかしかない事がわかった。これなら全部飲み干してしまっても問題ないだろうと思い、瓶も抱えて元の位置へ戻る。 しばらくの間、月見酒と洒落込んでいると懐の電話が鳴った。 『おまえ、春に結婚するんだって――――っ?!』 これ以上ないというくらい大声でわめく右近に、思わず電話を耳から遠ざける。 「しねーよ。どんだけ尾ヒレ付いてんだよ。その噂」 和成は呆れたようにため息をついて、事の真相を右近に話した。 『まぁ、変だとは思ったんだけど、口づけしてるのを見た奴がいるっていうから、紗也様吹っ切るためにヤケにでもなってんのかと思ってさ』 「ヤケで結婚したら相手に失礼だろ」 和成がそう言うと、右近がおもしろそうに問い返してきた。 『お? 相手の気持ちがわかるようになったのか? もしかして中途半端の意味わかった?』 和成は吐き捨てるように言う。 「俺が人形なのは”心がない”からだろう? おまえも大概失礼な奴だよな。面と向かってそんな事」 『心がないんじゃなくて、人の心がわかってないって事だよ。自分の心も含めて』 「同じようなもんだろ。ま、佐矢子殿にも機械の人形みたいに見えてたって言われたけどな」 『そら見ろ。俺だけじゃなくて、みんな思ってんだよ』 勝ち誇ったような右近の声を聞き流して、ふと気付いた。 「そう言えば、彼女おまえに似てるな。妙に勘がいいし。おまえと気が合うかもな」 『じゃあ、紹介してくれよ』 「断る」 嬉々として言う右近に、和成は間髪入れずに拒否する。 『なんで?』 「俺はダメだけど、代わりにこの人どうですか、なんてできるか。また泣かせてしまうだろう」 『はい。よくできました』 右近が歌うように言った。和成は顔をしかめる。 「なんだよそれ。からかってるのか?」 『いいや。誉めてんだよ。昔に比べて大分人間っぽくなってきたな』 「俺は元々人間だっての」 『やっぱアレだよな。紗也様に惚れてるって気が付いてからだよな。周りの人間を見るようになったの』 「だから紗也様は……」 「私がどうかしたの?」 和成が飛び上がりそうなほど驚いて振り向くと、そこに紗也が立っていた。 「悪い、右近。紗也様がお見えになった。またな!」 一方的に電話を切って立ち上がろうとすると、紗也の方が先に隣に座って和成の顔を覗き込んだ。 「右近と何話してたの? 私の悪口?」 探るように見つめる紗也に、和成は笑顔を引きつらせながら言い訳をする。 「悪口など滅相もございません。明日、城下をご案内する話をしていただけです」 「本当?」 紗也は首を傾けて目を細くしながら、さらに和成を見据える。 蛇に睨まれた蛙のように和成が黙って見つめ返していると、突然紗也が顔を近づけてきた。 「あれ?」 そうつぶやきながら、和成の口元に向かって益々顔を近づけてくる。 心臓に悪い。一気に脈拍数が跳ね上がり、至近距離に迫った紗也の唇に、和成の目は釘付けになった。 予測していなかった紗也の行動に焦りながら、紗也が近付いた分だけ顔を退いて問いかける。 「な、何ですか?」 「和成、お酒飲んでるの?」 どうやら酒の匂いを嗅いでいたらしい。理由がわかってホッとしながら、和成は答えた。 「はい。飲んでます」 「えーっ?! 和成お酒飲めるのーっ?!」 紗也が大げさにのけぞる。 「そんなに驚く事ですか?」 「だって私と一緒の宴席じゃ、いつも飲めないって断ってるじゃない」 「あなたと一緒の宴席は私にとっては仕事ですから、酔うわけにはまいりません。だから断るんですよ」 「あ、そっか。なーんだ。ほんとに飲めないのかと思ってた。ねぇ、私にも少しちょうだい」 笑顔でおねだりする紗也を、和成は真顔で断った。 「ダメです。お子様の飲むものではございません」 「ケチーッ! 自分だってお子様みたいな顔してるくせに」 「顔はそうでも中身は違いますから。代わりの飲み物をお持ちしますので少しお待ち下さい」 和成はため息をついて立ち上がり、自室に引き返した。 少しして湯気の立つ湯呑みを持って和成が戻って来た。 渡された湯呑みの中を紗也は不思議そうに眺める。薄黄色の液体の中に黒くて四角い板状のものが沈んでいた。 「なんなの? これ」 「昆布茶です」 「昆布って、海藻の? お茶になるの?」 「よく御存知ですね。杉森は海がないから珍しいでしょう。私も母から貰ったものなんですけどね。あたたかいうちにお召し上がり下さい」 紗也が恐る恐る口にする。 「あ、なんかしょっぱい。不思議な味」 「海の味だそうですよ」 「海ってしょっぱいの? 和成は海を見たことある?」 「ありません。私が生まれた時には、すでに戦乱の世の中でしたから」 「そっか。よその国の向こうだもんね、海があるの。早く平和になって海に行けたらいいな」 両手で湯呑みを握り、茶をすすりながら紗也が他人事のように言う。 和成は紗也の横に座り直すと、酒を飲みながら呆れたように横目で見た。 「あなたが平和になさるんですよ。君主なんですから」 「あ、そうだった。忘れてた」 「肝心なこと忘れないで下さい」 晩秋の夜風がふたりの間を、そよと吹き抜ける。紗也がひとつ、くしゃみをした。 「お風邪を召しますよ」 和成は自分の着ていた上着を脱いで紗也の肩にかける。 「わぁ、あったかーい」 紗也は歓声をあげながら、身体を丸めてその中に潜り込んだ。 「和成にだっこしてもらったらこんな感じなんだね」 嬉しそうに向けられた無邪気な笑顔から、和成は目を逸らして酒を飲む。 「妙なことをおっしゃらないで下さい。それより、こんな時間にわざわざいらしたのは何か御用だったのではないですか?」 紗也は昆布茶を飲み干して湯呑みを和成に渡した。 「こんな時間って、まだ九時じゃない。塔矢が真夜中に行っちゃダメって言うから早めに来たの」 「ですから、どういうご用件で?」 少し俯いて、紗也は眠そうに何度もゆっくりと瞬きをする。 「うん……本当は……聞きたい事があったんだけど、なんかもう、どうでもよくなってきちゃった」 そう言って紗也は上着に潜り込んだまま、和成の肩にもたれかかった。 「紗也様。お休みになるんでしたら、お部屋にお戻り下さい」 体重をかけられ、逃げるに逃げられず和成は焦る。 「だって、こんなに暖かくて気持ちいいし、和成といっぱい話ができたから、もういいの」 「よくありません。お目覚め下さい」 和成の説得も空しく、とうとう紗也は目を閉じて、身体の力が全部抜けた。その拍子に頭が和成の肩から滑り落ち、ひざの上に着地する。 和成はあわてて覗き込んだ。 「大丈夫ですか? 紗也様」 しばらく待ったが返事がない。恐る恐る指先で頬をつついてみる。それでも反応がない。寝たフリではないかと、もうしばらく待ってみたがピクリとも動かない。 「……マジ? 熟睡?」 和成は後ろの床に両手をついて天井を見上げた。 「信じらんね。無防備にも程があるだろ。ったく、人の気も知らないで」 自分のひざを枕に眠りこける紗也に視線を戻す。 不意にイタズラ心が芽生えて、離れた所から小声でからかった。 「もしもーし。そんな所で眠ってると襲っちゃいますよー」 紗也が気付かずに眠り続けているのがおかしくて、和成は声を噛み殺して笑う。 おもしろいのでもう一声かけてみた。 「護衛の俺が一番危険な奴かもしれませんよー」 堪えきれずに声を出してしばらく笑い続けた。 笑った拍子に身体が揺れたので、紗也が目を覚ましたのではないかと身体を起こして覗き込む。呆れたことにかなり揺さぶられたにもかかわらず、目を覚ます気配もない。 その幸せそうな寝顔を見つめながら和成は懇願した。 「どうか嫌いだとおっしゃって下さい。和成なんか顔も見たくないと。そんな風に無防備に慕われているとツライです」 紗也の頭をひと撫でして、長い黒髪の先端を手に取りそっと口づける。そして沈みかけた月を見上げた。 幸せな重みをひざの上に感じながら、紗也のせいなのか酒のせいなのか火照った顔を夜風で冷ます。 しばらくして酒も底をつき酔いも醒めてくると、上着を紗也に取られて肌寒さを感じてきた。 このまま、こんな所で眠りこけていると紗也が本当に風邪を引きかねないので肩をゆする。 「紗也様。お部屋でお休み下さい」 しかし微動だにしない紗也に少しムッとして、和成は先程より強くゆすりながら大声で怒鳴った。 「いいかげんにお目覚め下さい!」 「も〜お。何?」 さすがに紗也も目を覚まして起きあがる。 目をこすりながら迷惑そうに見つめる紗也を、和成はさらに怒鳴った。 「どういう神経していらっしゃるんですか。さっきから何度もゆすったり呼んだりしてるのに。ひとの上で熟睡なさらないで下さい! 足がしびれます」 「あーっ!」 突然紗也が大声を上げたので、和成は思わずひるむ。 「何ですか?」 紗也は嬉しそうな笑顔で和成を見つめた。 「よかった。今日は一回も怒鳴らないのかと思った」 その様子に和成は一気に毒気を抜かれてため息をつく。 「怒鳴られて嬉しそうにしないで下さいよ。あなたを怒鳴るのは別に私の日課じゃありませんし」 酒瓶と湯呑みを持って立ち上がると、紗也も立ち上がった。 「ねぇ。この上着、貰ってもいい?」 見ると紗也は和成の上着に袖まで通して、持って帰る気満々に見える。 「かまいませんけど、それはもう古いので洗濯してある新しい別のを差し上げますよ」 そう言って和成が手を差し出すと、紗也は上着の前をぎゅっと閉じて一歩下がった。 「ううん。これがいいの。和成の匂いがするし」 「え?!」 男臭いという事だろうか。自分の体臭など自分ではわからないが、匂いのするようなものを女の子にあげるのはさすがにはばかられる。 「そんなもの差し上げるわけにはまいりません。お渡し下さい」 改めて詰め寄る和成の射程圏内から、紗也は素早く退いた。 「やだ。これがいいの」 着古して匂いのするような薄汚い上着にどうしてこだわるのか、和成には理解できない。けれど紗也のわがままをうまく躱す策も見いだせず、和成は渋々承諾した。 「わかりました。どうぞお持ち下さい」 「わーい。ありがとう。じゃあ明日護衛よろしくね。おやすみ」 途端に上機嫌になった紗也は、手を振って渡り廊下の向こうに消えて行った。 和成は紗也を見送った後、空の月をチラリと眺める。想いを捨て去る事も、隠し通す事もできない中途半端な和成を、月は相変わらず嘲笑っているかのようだ。 ひとつため息をついて、和成は自室に戻った。 |
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