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6.決意の証



 翌日正午に杉森国では国内随所に設置された拡声器より、国境の完全封鎖を知らせる警戒音が一斉に鳴り響いた。
 程なく、情報処理部隊より灘元浦部同盟軍が進軍を開始したとの情報がもたらされる。
 他国との通信回線が遮断されているため、少し遅れて東方砦に灘元の伝令が宣言文を携えて現れた。
 同盟軍の要求を聞こうともしないのは宣戦布告と見なし攻撃を開始するというのだ。
 進軍が開始されると具体的な部隊情報が次々と入ってくる。和成が事前の戦略案をまとめ終わると共に、軍議が開かれた。
 灘元浦部両国を合わせた国土はとにかく広い。同盟軍が前線に到達するのは、明日の昼過ぎになるだろう。杉森軍は明日早朝に出立し、布陣を整えて迎え撃つ。
 和成による戦略の説明が終わり、部隊長たちが各々の布陣と役割を確認すると、夕方に軍議は終了した。
 城内官吏の終業時間よりは早いが、明日早朝に出立しなければならないので、皆それぞれ帰宅する。
 会議室を出た塔矢に紗也が声をかけた。
「塔矢、帰る前に執務室に寄ってね」
 そう言って執務室の方に駆けて行く。それを見送った後、和成は塔矢に問いかけた。
「今回の戦、勝てると思いますか?」
「そんなもの、やってみなきゃわかるもんか」
 塔矢は軽い調子で即答する。
「こんな大規模な戦は初めてだからな」
 飄々とした様子の塔矢を、和成は不安げに見つめた。
「戦力差がありすぎます。かなり厳しいと思います」
「まぁ、大軍には違いないが、所詮は烏合の衆だ。ついこの間までケンカしてた奴らのにわか同盟で統制がとれているとは思えん。付け入る隙があるとすればそこだな。せいぜい撹乱してやるさ」
 ニヤリと笑う塔矢に、和成は益々不安そうな顔になる。
「なんか、楽しそうに見えるんですけど」
 和成が呆れたように言うと、塔矢は平然と言い返した。
「楽しいとも。何にしても初めての経験ってのは不安もあるが、わくわくするもんだろ?」
「そうかもしれませんけど……。今までは戦が終わったら何しようって考えてたのに、今回は負けたらどうなるんだろうって、そればかり考えてしまうんです。今まで戦を軽く見ていたわけではありませんが、負けを意識した事はありませんでした。圧倒的な戦力差のせいで、負けがちらついて仕方ありません。負けたらこの国はどうなるんでしょうか? 紗也様は……」
 暗くなって俯く和成の頭を、塔矢は軽く小突く。
「やる前から負ける事を考えるな。やってもみないで悪い結論ばかり考えてどうする。考えるべきはできるかどうかじゃない。いかにして成すかだ」
 塔矢がそう言って腕を組むと、和成は突然目を見開いた。そして俯いたままつぶやく。
「そうか。俺はまだ何もやってみてなかった……。できるかどうかなんて、やってみなきゃわかるわけない……」
 和成は顔を上げて、塔矢をまっすぐ見つめながら微笑んだ。
「塔矢殿。私は紗也様を愛しています」
 突然、何の脈絡もない事を臆面もなく言われて塔矢は一瞬たじろぐ。
「なんだ、やぶから棒に。聞いているこっちが恥ずかしいぞ」
 和成は笑顔を崩すことなく続けた。
「私はこの気持ちを誰にも恥じる所はありません。戦が終わったら私の話を聞いてもらえますか?」
 何かを悟ったような和成の様子に、塔矢も笑顔になる。
「あぁ。必ず生きて帰って来いよ」
「前線の塔矢殿の方こそ、どうかご武運を」
 塔矢は笑って軽く手を挙げると、和成と別れて紗也の待つ執務室へ向かった。



 明日に備えて早めに夕食と風呂を済ませた和成は、自室前の石段に座って月と桜を眺めながら時が来るのを待っていた。
 やがて紗也が夕食を終えたであろう時間になり、おもむろに立ち上がる。廊下に上がろうとした時、懐の電話が鳴った。これから会いに行こうと思っていた当の本人紗也だ。
『ねぇ、和成。お花見しない?』
「花見ですか? まだ七分咲き程度ですけど」
『私の庭の桜は満開なのよ。ちょっと散りかけてる所もあるの。今日は満月だし、見に来ない?』
 和成は思わず微笑んだ。満月の夜に桜が満開になったら同時に楽しめる。そのささやかな願いが叶ったのだ。
「いいですね。ちょうどお話ししたい事がございましたので、お伺いしようと思っていたところです」
『じゃあ、待ってるからね』
 和成は電話を懐にしまうと少し逡巡した後、一旦自室に戻り缶に入った果汁飲料と酒を持って紗也の居室へ向かう。
 渡り廊下を越えて、長い廊下を歩いていると庭から声が聞こえた。
「和成ーっ。こっちこっち」
 声のする方に目をやれば、庭に設置された机と長椅子の横で手を振る笑顔の紗也が見える。
 和成は廊下から庭に降りて、紗也の元へ向かった。庭にいたのは紗也ひとりだけだ。和成は辺りを見回して尋ねる。
「女官たちはどこかに行ってるんですか?」
「明日早いから、もう下がらせたの」
「じゃあ、自分で持ってきて正解でしたね」
 和成はそう言って酒瓶を掲げて見せた。そして缶の果汁飲料を紗也に差し出す。
「はい、どうぞ。紗也様のお好きなブドウ味です」
「わーい。うれしー」
 喜んで飛びついた缶を眺めて、紗也は不服そうに目を細くした。
「ちょっと。また私はお酒じゃないの?」
「あたりまえです。もうすぐ十九歳ですよね。あと一年お待ち下さい。そうしたら一緒に月見酒を飲みましょう」
「も〜ぉ。堅いんだから」
 紗也はふてくされたように長椅子に座り、缶のフタを開ける。和成は少し笑って紗也の隣に腰掛けると、持ってきた湯飲みに酒を注いだ。
 酒を一口飲んで目の前の桜に目を移す。
 満月の光に照らされた満開の桜は、薄暗い庭の中にくっきりと白く浮かび上がっていた。時折吹くやわらかな春の夜風に、薄桃色の花びらをちらほらと舞わせ幻想的な美しさをたたえている。
「本当にみごとな満開ですね」
「でしょ? 戦が終わる頃には散ってると思うともったいなくて」
 すでに機嫌の直った紗也が、横から顔を覗き込んできた。和成は黙って微笑み返し、再び桜に視線を戻す。
 しばらくの間二人ともそれぞれ飲み物を飲みながら桜と月を眺めていた。
 紗也が桜を見つめたまま、おもむろに口を開く。
「今日ね、塔矢に私の気持ちを話したの」
 和成も桜を見つめたまま問いかけた。
「塔矢殿は何と?」
「私の意思を尊重するって」
「そうですか」
 和成は一度月を仰ぎ見た後、手にした湯飲みを机に置いて、紗也の方へひざを向ける。
「私も私の決意をあなたにお伝えしたくて参りました」
 紗也は黙って和成を見つめた。
「私はあなたのご意思と私自身の想いに従う所存です。たとえ塔矢殿や他の重臣方がどう言おうと、もう迷わないと決めました。私にあなたをお助けして国を支えていくだけの力があるかどうかはわかりませんが、少しでもあなたの重荷を軽くして差し上げたいと存じます」
「うん。ありがとう」
 紗也も和成の方へひざを向けると、微笑んで和成の右手を握る。紗也の手に左手を乗せて、和成は真顔で告げた。
「戦が終わったら、私と結婚していただけませんか?」
「え?」
 紗也は驚いたように目を見開いて和成を見つめる。その様子に和成は少し苦笑した。
「……性急すぎましたか?」
 紗也はあわてて首を横に振る。
「ううん! そうじゃなくて。それ、私が言おうと思ってたの」
「え?」
 今度は和成の方が目を見開いた。
「だって、和成の方からは言いにくいかと思って。それに、和成にはずっと一緒にいて欲しいから、他の人に取られる前に私のものだって知らしめておかないと」
 真顔で言い放つ紗也に思わず吹き出して、和成は笑いながら紗也を抱きしめる。
「そんな事なさらなくても、私はとっくにあなたのものです」
 紗也は嬉しそうに笑って和成にしがみついた。
 少しして和成は紗也から離れると、酒の入った湯飲みを掲げて紗也に言う。
「無事に戦を終えて結婚できるように戦勝を祈願して乾杯しましょう」
 紗也も缶を持ち上げて和成の湯飲みと縁を合わせた。
 笑顔で乾杯したものの、酒を飲む和成を見ながら紗也が不服そうにつぶやく。
「なぁ〜んか、お酒じゃないと雰囲気でないんだけど」
「お酒で乾杯なさった事もないじゃないですか」
 和成が湯飲みを握った手をひざに置いてため息をつくと、紗也はその湯飲みの中を覗き込みながら問いかけた。
「ねぇ、お酒っておいしいの?」
 和成は紗也の目の前をゆっくりと通過させて湯飲みを口へ運ぶ。
「おいしいですよ」
 そう言って酒を飲みながら横目で紗也を見つめる和成の顔が、戦場で策を巡らせる軍師の表情になっている事に紗也は気付いていなかった。
「少しだけ、味見なさいますか?」
 和成は意味ありげな笑みをたたえて紗也に問いかける。
「え? いいの?」
 嬉しそうに見上げた紗也の唇に、和成は軽く口づけた。
 紗也は驚いて一瞬固まった後、和成の触れた唇を舌先でペロリとなぞる。そして、上目遣いに和成を見つめた。
「……味、よくわかんないけど……。でも、酔ったのかな。なんか、顔が熱くなってきちゃった……」
 紗也の顔がみるみる朱に染まる。
 和成は破顔一笑、紗也を抱き寄せた。そして、ゆっくりと顔を近づける。
 驚いて見開かれた紗也の瞳が閉じられると、今度は深く口づけた。
 この口づけは決意の証。もう迷わない。後には退かない。誰に何を言われようとも決して紗也を手放さない。
 長い口づけの後、和成は紗也を見つめて宣誓した。
「誓います。私はあなたとあなたの国を一生お守りいたします」
 うるんだ瞳で和成を見つめ返し、紗也は微笑む。
「私の全部を和成にあげる」
「喜んで、拝受いたします」
 和成は笑って紗也を抱きしめると、再び口づけた。
 一陣の風が桜の枝をざわりと揺らし、薄桃色の花びらを月夜の空に舞い上げる。
 ”戦が終わったらなどと言う者は、戦で命を落とす”そんな戦場の言い伝えが、和成の脳裏をかすめた。




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