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7.薄氷上の幸せ



 夜は深々と更けてゆく。和成は椅子の背にもたれ、少し西に傾きかけた月を眺めながら黙って酒を飲んでいた。
 自分のひざを枕に寝息を立てる紗也を見つめて少し笑う。
「ドキドキして眠くならないって、おっしゃったのはどなたでしたっけ?」
 そう言って紗也の鼻をちょっとつまんでみた。
 相変わらず熟睡した紗也はピクリとも動かない。
 気持ちが高ぶっていて本当はちっとも眠くないのだが、さすがに少しは眠っておかないと合戦中に居眠りしたら大変である。
 和成は紗也を抱き上げ、紗也の居室に向かった。
 君主の居室は城下の一般的な民家より、途方もなく広い。たくさんの部屋の中から寝室を探さなければならないのだ。和成が知っているのはその中の一室、謁見室だけだ。
 とりあえず謁見室の長椅子に紗也を寝かせて、一部屋ずつ覗いて回った。
 うっかり女官の詰め所でも開けてしまったらどうしよう、とちょっとドキドキしながらそっと戸を開けてみる。
 幸い、三つ目で寝室を探し当てた。
 灯りを点けて中に一歩入った途端、和成は思わず感嘆の声を上げる。
「広っ……」
 和成の部屋の十倍はあろうかという広い空間に、家具は壁に埋め込まれた戸棚と、紗也なら五人は寝られそうなくらい大きな寝台が部屋の真ん中にあるだけだった。
 和成は寝台に歩み寄り、紗也を寝かせるために布団をめくって思わず顔が引きつる。
 布団の中に以前紗也にあげた自分の上着が、縦長に丸められて横たわっていたのだ。
「……俺の上着、抱き枕にしてたわけ?」
 苦笑した後、その姿を想像し、まるで自分自身が紗也に抱きしめられて一緒に眠っていたような錯覚に陥り、少しドキドキしてしまった。
 でも考えてみればこのだだっ広い部屋の大きな布団の中に、たった一人で寝るのはちょっと寂しいかもしれない。
 寝台の横、部屋の真ん中に立って改めて部屋を見回す。
「寝るだけにしては、広すぎるよな」
 寝台の広さを考えると先代の時は夫婦の寝室だったのかもしれない。
「じゃあ、寝るだけじゃないか。……って何考えてんだ、俺!」
 いずれ紗也と結婚したら二人でここに寝るのかな、とうっかりその先を考えそうになる。妄想を振り払うために二、三回頭を振って、紗也を寝かせてきた謁見室へ戻った。
 もしかして起きているんじゃないかと思ったが、部屋を出た時と寸分違わぬ状態で幸せそうに眠っている。
 和成は再び紗也を抱き上げて寝室へ向かった。
 寝台に紗也を寝かせ、布団を掛け、灯りを消す。部屋を出ようとした時、紗也が小さな声で名を呼んだ。
 てっきり熟睡しているものと思い込んでいたので、和成は飛び上がりそうなほど驚く。聞き間違いかもしれないので声をかけてみた。
「紗也様?」
 返事はない。さっきの妄想が聞かせた幻聴だったのだろう。
 大きくため息をついて再び部屋を出ようとすると、今度は先ほどよりも大きく少し苛々した声がはっきりと聞こえた。
「和成、こっち来て」
「は、はい」
 返事をして咄嗟に部屋の戸を閉める。
 暗闇に目が慣れてきた。天井付近にある明かり取りの窓から差し込む月光で、紗也の寝ている寝台がはっきりと見える。
 そこに紗也がいるのはわかっているし、見えているが頭が混乱して身体が動かない。
 どういう事? やっぱり、そう言う事? でも、いいんだろうか。それを繰り返し考えていると、鼓動は早くなり、握りしめた手の平にじんわりと汗が滲んできた。
 手の平の汗を着物の腰の辺りで拭うと、意を決して和成は寝台に歩み寄る。
 側に立ったままで問いかけた。
「な、何かご用でしょうか?」
 我ながら間抜けな問いかけだと思いつつ、反応を待つ。――が返事はない。
 答えようがないよなと思い、寝台の横にひざをついて顔を覗き込んだ。
 眠っている。
 どう見ても眠っているように見える。
「寝言かよ……」
 和成は一気に脱力して、寝台の上に上半身を投げ出した。
 投げ出された和成の左手を紗也が両手で捕まえる。それを少し自分の方へ引き寄せて嬉しそうに笑った。
 その様子を見て和成は少し笑みをこぼす。諦めて寝台の横に座り、左手を紗也に預けたまま右手を枕にそのままそこで眠る事にした。
「いったい、どんな夢見てるんだか……」
 幸せそうな紗也の寝顔を見ていると、自分もなんだか幸せな気分になって、いつのまにかうとうとと眠りに落ちていた。



 明け方、懐の電話の振動で和成は目を覚ました。あらかじめ設定しておいた目覚ましが作動したようだ。
 外はまだ薄暗い。
 目の前に紗也の寝顔があり、驚いて一気に目が覚めた。目が覚めたので紗也の寝室でそのまま眠ってしまった事を思い出す。
 紗也は今も和成の左手を握ったまま眠っている。
 しばらく寝顔を眺めていたが、そろそろ部屋を出ないと女官たちが紗也を起こしに来るだろう。
 自分がここにいる事の言い訳を考えるのも面倒なので、そっと左手を引き抜こうとした時、紗也がぱっちりと目を開いた。
 ぼんやりとした表情で和成を見つめている。目があったので微笑んで挨拶をした。
「おはようございます」
 聞こえたのか、聞こえてないのか、紗也は未だにぼんやりと和成を見つめている。――が、突然目を見開いて飛び起きた。
「和成?!」
 あたりをキョロキョロと見回した後、和成に視線を戻す。
「私、眠っちゃったの? もう朝?」
 和成は寝台の縁に座り、平然と答えた。
「はい。そろそろお目覚めになった方がよいかと存じます」
 ふと、眠る前の事が気になったので尋ねてみる事にする。
「どんな夢をご覧になってたんですか?」
 紗也が少しうろたえた。
「え?! 私、寝言でも言ったの?!」
「はい」
「なんて?!」
「こっちに来て、と」
 紗也が訝しげに眉を寄せる。
「何、それ?」
「存じません。私がお聞きしたいくらいです」
 和成はすました顔でそう言った後、少し笑ってからかうように見つめた。
「てっきり誘ってらっしゃるのかと思って、まんまとおびき寄せられて捕まってしまいました」
 未だに握られたままの左手を挙げて見せると、紗也はあわてて手を離す。
「ごめん! もしかして、ずっと床に座ってたの? 一緒に寝ればよかったのに」
 平然と言う紗也に、和成は少し赤面する。
「断りもなく、そんな図々しい事できませんよ。それに先客がいましたしね」
「先客?」
 紗也が不思議そうに首を傾げた。
「私の上着です。抱き枕になさってたんですね」
 紗也が気まずそうに頬を赤らめてそっぽを向く。
「いいじゃない! 和成と一緒にいるみたいで安心して眠れるんだもん。本人はいつも忙しくてちっとも一緒にいてくれないんだし」
「これからは時間が許す限りずっと一緒にいます」
 和成がそう言うと、紗也は少し照れくさそうに笑って両手を広げた。
「ねぇ。ぎゅって、して」
 乞われるままに紗也を抱きしめる。
「そろそろ女官たちがやって来るんじゃないですか?」
「私が呼ぶまで来ないから大丈夫」
 この現場を見られて、また城内の噂の的になる心配はなくなったものの、いつまでもこうしているわけにもいかない。
 総大将と軍師がそろって戦に遅刻しました、では笑い話にもならないし、第一士気も下がる。
 和成が離れようとすると、突然紗也が大声を上げた。
「あーっ! 思い出した! ひどいじゃないの、和成!」
「何の事ですか?」
 心当たりのない和成は、首を傾げて問い返す。
「思い出したの。夢の話。私と一緒にごはん食べてる最中に慎平がやって来て、おいしいお酒があるって言ったの。それを聞いて和成ったらホイホイついて行こうとしたのよ。だから”どこ行くのよ。こっち来て”って呼んだの。私よりおいしいお酒を取るなんて、ひどいじゃないの!」
 話を聞いて、和成は思いきりため息をついた。
「あなたの夢の中の事まで責任もてませんよ。私の事、どれだけ飲んだくれだとお思いなんですか」
 紗也は和成の言葉を聞き流して、脈絡のない事を聞く。
「それはそれとして、いつまで敬語なの?」
 和成は一瞬絶句して項垂れた。
「……もうしばらくご勘弁下さい……」
 そして名残惜しそうにもう一度紗也を抱きしめると、軽く口づけて自室へ戻った。



 後方支援部隊となる情報処理部隊や補給部隊は城の前庭に集合し、今回の本陣となる東方砦へと出立する。
 和成は紗也の寝室を辞してから一時間後、戦支度を整えて紗也を迎えに行った。そして一緒に皆の集合する前庭へ向かう。
 城を出てすぐの広場に馬を引いた塔矢が立っていた。塔矢たち前線部隊は一足先に前線へ向かっているはずである。何かあったのか不安になって和成は尋ねた。
「塔矢殿、先に出たのではなかったんですか? 何か不測の事態でも?」
 塔矢はニヤリと笑いながら馬の側を離れ、大股で和成に歩み寄ってくる。
「何もない。和成、一発殴らせろ」
「は?」
 和成が返事をするよりも先に側までやって来ていた塔矢は、平手でいきなり頬を打った。
 後ろにいた紗也が驚いて小さな悲鳴を上げる。
 不意打ちを食らって訳がわからず、打たれた頬を押さえながら和成は塔矢を睨んだ。
「なんなんですか、いったい」
 塔矢は満足げに微笑む。
「正念場だからな。気合いを入れてやったんだ。紗也様を頼んだぞ」
 そう言ってさっさと馬に乗り、前庭を駆け抜けて城を出て行った。
 頬を押さえたまま呆然と見送る和成の横で紗也が足を踏みならす。
「んもう! なんなのよ、塔矢ったら!」
「よくわかりません。私が浅慮なだけかもしれませんが、塔矢殿は計り知れない方なんです」
 塔矢の立ち去った方向を呆然と見つめたまま和成はポツリとつぶやいた。
 あまりに唐突すぎて、気合いが入ったかどうかは微妙だった。




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