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9.月に見放された夜 「和成――――っ!」 悲鳴のような紗也の呼び声に驚いて、振り向いた和成は信じ難いものを目の当たりにした。 ほんの数歩先まで走り寄ってきた紗也が、何かにぶつかったように目を見開いて急停止する。左胸から矢尻が突き出していた。 和成と目があった紗也は、目を細めて微かに笑みを刻む。しかしその目はすぐに閉じられ、身体は力なくその場にくずおれた。 「紗也様!」 和成は駆け寄って紗也を抱き起こす。胸から突き出た矢尻の周りに、みるみる赤い染みが広がっていった。 紗也の背後に視線を向ける。少し開いた窓の向こうで忌々しそうに顔をゆがめて、立ち去る敵兵の姿が見えた。 「慎平、頼む」 和成はそう言って立ち上がり、刀を掴んで窓に駆け寄る。一気に窓を開け放ち、そのままそこから外へ飛び出した。 閃く雷光が闇の中に走り去る刺客の姿を浮かび上がらせる。少し遅れて雷鳴が轟いた。 俊足の和成はすぐに追いつくと鞘を打ち捨て、背中から斬りつける。 刺客の男は声を上げて、激しく雨の打ち付けるぬかるんだ地面に倒れ込んだ。肩に担いだ矢筒が落ちて、矢がバラバラと男の周りに散らばる。 和成は大股で歩み寄り、うつ伏せで苦しそうに呻いている男の身体を、足の先で蹴って仰向けに返した。 腰に差した小刀を抜こうと伸ばした男の手を、和成は腹の上で思い切り踏みつける。 思わず声を上げた男の腰から小刀を引き抜き後ろへ放り投げると、身体をかがめて泥水で汚れた顔を覗き込んだ。 「ひとの女、目の前で手にかけておいて逃げられると思ってたわけ?」 再び閃いた雷光が、和成の顔を照らし出す。その瞳には憎しみの炎を宿し、冷酷な薄笑いを浮かべていた。 男は怯えたように目を見開いて和成を凝視する。 「電話持ってるだろ? 上官に連絡しろよ。失敗したって」 動かないでいる男に、和成は声を荒げた。 「早く!」 男は空いた手で慌てて懐から電話を取りだし操作し始める。 途中、チラリと和成を見た。和成は少し笑みを浮かべて、静かに釘を刺す。 「家族とか、違うとこにはかけない方がいいよ。自分の死に際の声、聞かせたくないだろ?」 図星だったのか、男は顔をゆがめて、再び電話を操作する。 相手が応答し男が口を開こうとした時、和成が電話を取り上げた。 『どうした?! うまくやったか?』 上官と思われる男の興奮した声が聞こえる。 「残念だったね」 和成がそう言うと、一瞬の沈黙の後相手が問い返してきた。 『誰だ?!』 「我が名は杉森軍軍師、三津多和成」 『何?!』 和成が名乗ると相手は更に興奮した声を上げる。 「俺は生きてるよ。彼はもうすぐ死ぬけどね」 和成は言うだけ言って、回線がつながったままの電話を刺客の顔の横に放り投げた。そして一層怯えたような表情をする刺客の胸に、ためらうことなく一気に刀を突き刺す。 泥水の中でどしゃ降りの雨に打たれながら、主の断末魔の声を届け終わると、彼の電話は役目を終えてゆっくりと眠りについた。 紗也がおそらく助からないだろう事はわかっている。 和成は冷たい表情で男を見下ろすと、一旦刀を引き抜いた。 「俺の大切な女なんだ。どうしておまえなんかに奪われなきゃならない!」 憤りをぶつけながら、すでに骸と化した身体に再び刀を突き刺す。 「やっと想いが通じたのに! やっと手に入れたのに!」 どしゃ降りの雨に全身ずぶ濡れになりながら、和成は機械のように何度も男の身体に刀を突き立てた。 和成を追って司令所を出てきた慎平は、取り憑かれたように刀を突き刺している和成を見てその場に立ち尽くす。少しして悲痛な声を上げた。 「和成殿! もう死んでます!」 慎平の叫び声で和成は、ピタリと動きを止める。 男の身体から刀を引き抜き、ゆっくりと振り返った和成の顔は意外なほど穏やかな表情をしていた。それがかえって慎平を不安な気持ちにさせる。 男の骸を背にして和成は慎平に問いかけた。 「紗也様は?」 慎平はつらそうに目を伏せると、力なく首を横に振る。 「……和成殿が飛び出して行った時にはすでに息がありませんでした。即死だったようです。隊長がほとんど苦しむ事はなかっただろうと……」 「そうか……。さすが刺客ってとこか。案外いい腕してたんだな、あいつ……」 まるで他人事のように冷静に分析する和成に違和感を覚えながらも、慎平はかける言葉を見つけられず、ただ黙って俯いた。 雨は更に激しさを増す。少しして雨音にかき消されそうなほど低く掠れた声で和成がつぶやいた。 「……悪い、慎平。後、頼む……」 不審に思い慎平は顔を上げる。目の前で刀を持った和成の手がゆっくりと持ち上げられ、刃が首筋にあてがわれようとしていた。 「ダメです!」 慎平は咄嗟に刀を持った和成の腕を両手で掴む。 その腕を振りほどこうと和成が必死で抵抗した。 「死なせろよ! 主を守れなかった間抜けな護衛はどうせ極刑なんだ!」 「それでも私は、和成殿が死ぬのはイヤです!」 しばらく揉み合ううちに、刃が慎平の頬をかすめた。慎平が少し顔をゆがめて小さな声を漏らす。 その声と頬から滲み出た血に、和成はハッとしたように動きを止めた。一瞬力の弛んだ和成の手から、慎平は刀をもぎ取って後ろへ飛び退く。 和成は呆然と慎平を見つめた後、力が抜けたようにその場にひざをついて、そのまま座り込んだ。 そして、救いを求めるように空を仰ぐ。 月は見えない。暗い空から、見上げた顔を叩きつけるように激しい雨が降りしきる。 初めて人を、憎くて殺してやりたいと思った。その気持ちに従い人を殺め、憎しみのままに遺体を蹂躙した。 そんなどす黒い感情をかかえて血に染まった和成を、月の光は清めてはくれないのだろう。 和成は空から視線を戻すと、背中を丸めて項垂れた。 慎平は投げ捨てられていた鞘を拾い、刀を収めて和成に声をかける。 「司令所に戻りましょう。戦はまだ終わっていません」 「……そうだったな……」 和成は力なく答えて、のろのろと立ち上がった。そして二、三回頭を振ると、正面を見据えて何事もなかったかのようにスタスタと司令所へ歩いていく。 和成の様子の変わりように、慎平は少し戸惑いながらも彼の後について司令所に戻った。 司令所に戻ると情報処理部隊長が、自ら乾いた手ぬぐいを差し出してくれた。和成は礼を言って受け取り刺客を討ち取った事を告げる。 何かを探すように辺りを見回す和成に、隊長は答えた。 「紗也様は砦内の霊安室にお移りいただきました。このような騒々しい部屋の床に、いつまでもお休みいただくわけにはまいりませんので」 「そうですか」 和成が頷くと、隊長は深く頭を下げた。 「申し訳ありません、和成殿。斥候の新型無線電話を回収し忘れていたのは私の落ち度です。城に戻った者から順次回収しておりましたが、彼だけ遠くまで出ていたので一度も城に戻っていなかったようです。私がきちんと回収していれば刺客の存在にも早く気付いて、対応できていたかもしれません。そうすれば紗也様もこのような事には……」 隊長は目を固く閉じて言葉を飲む。 「隊長、あまり気に病まないで下さい。隊長が新型を全て回収していたとしても刺客を阻止できたとは限りません。今は目の前の戦に集中しましょう」 あまりにも冷静に答える和成に違和感を覚えて、情報処理部隊長は顔を上げると和成を見つめた。 特に何がどう変わったとははっきりわからない。だが、司令所を出て行く前とは何かが違うような気がして、和成を見つめたまま黙り込んだ。 「紗也様の事、前線には?」 和成の問いかけで隊長はハッと我に返り、慌てて返事をする。 「……あ、いえ、まだ知らせていません」 「よかった」 和成はホッとしたように息をついた。 「戦が終わるまで知らせないで下さい。敵が動かないので不思議に思っていましたが、刺客のおかげで敵の作戦が見えてきました。一気に戦局を動かします」 和成により敵の作戦が説明された。それによるとおそらく次のようなものだろうという。 敵は杉森軍の統制力は軍師の和成によるものだと思っているようだ。合戦中和成の指示により部隊長たちが的確に動いているのだと。 少数ながら統制のとれた杉森軍の前線を崩すのは、容易ではない事がこれまでの戦でわかっている。 そこで司令塔の和成を討ち取り、前線の統制を崩した上で一気に攻め込もうという作戦だったのだろう。そのため刺客の連絡を待って動かずにいたのだ。 だが実際には杉森軍の統制力は、部隊長たちの連携によるものだ。和成は事前に作戦を提示するだけで、戦況が大きく変化しない限り、合戦中に指示を出す事はほとんどない。司令所から逐次送られてくる戦況情報を元に事前の作戦に従って部隊長たちは独自の判断で動いている。稀に指示を仰ぐ事はあるが、ごく稀だ。 つまり、司令所が機能している限り、和成を討ち取っても戦況にはほとんど影響がない。 敵の作戦は元々破綻していた上に失敗したのだ。これを利用しない手はない。 すでに刺客が失敗した事を、浦部軍には知られている。 和成は城に連絡し、遮断されている他国との通信回線を一時的に開いてもらうよう指示した。 「灘元に浦部の刺客が失敗した事を知らせます」 この作戦は浦部が持ちかけたのだろう。前線部隊の大半は浦部軍で、灘元は援護に回っている。 難攻不落の杉森を陥落させれば、他国への脅威となる。噂通り秋津を制するのも夢ではない。そんな事を言って同盟したのだろう。 和成が灘元に情報を流して少しした頃、援護に当たっていた灘元軍が一斉に退き始めた。前線の浦部軍にも動揺が広がっているらしい。 さっそく塔矢から問い合わせがあった。 『敵の様子がおかしい。何があった?』 「浦部の姑息な作戦が失敗した事を灘元に知らせました。詳細は後ほどお知らせします。同盟自体、瓦解したかもしれません」 『わかった。おぉ、なんかどんどん退いていくぞ』 和成が淡々と報告している端から敵があたふたと撤退しているらしい。 敵はあっという間に撤退してしまったが、塔矢たち前線部隊は念のためそのまま前線に野営して待機する事になった。 戦がとりあえず終結し、砦の部隊も交替で休む事にする。 和成が当直を申し出ると、情報処理部隊長は和成には是非やってもらいたい事があると告げた。 「紗也様のご遺体の警護をお願いしたいのです。お一人ではおかわいそうですから」 「ですが、私は……」 躊躇する和成に、隊長は頭を下げる。 「つらいのはわかりますが、どうかお願いします。紗也様が側にいて欲しいのは和成殿だと思いますので」 和成は困ったように隊長を見つめた。隊長は顔を上げて理由を話す。 以前、和成の極刑が取り消しとなった時、情報処理部隊長の尽力に対して、紗也から直々にお礼の言葉を賜ったのだという。その時少し話をして、紗也が和成をいたくお気に召しているのを察したらしい。 「今だから言いますけど、あの時私は紗也様の軽率な行いに対して思うところがありました。いつも和成殿に反発なさっているので、極刑まではお考えが及ばなかったにしても、迷惑をかけてやろうとお考えだったのではないかと勘繰っておりました。ですから、和成殿を助けて欲しいと頭を下げられた時には心底驚きましたし、和成殿が助かった事をそれは嬉しそうにお話しなさるので面食らってしまいました。きっと紗也様は和成殿が大好きなのだと思いますよ」 和成は少し笑みを浮かべた。そして情報処理部隊長に告げる。 「わかりました。私は紗也様の護衛ですから、最後まで警護いたします」 そう言って頭を下げると、紗也のいる霊安室に向かった。 部屋の灯りを点けると、寒々とした殺風景な部屋の真ん中で、固い寝台に横たわる紗也の姿があった。 和成は歩み寄り、全身に掛けられた白い布を少しめくって顔を眺める。 朝に眺めた寝顔と変わらぬ穏やかな表情に、和成は目を細めた。 「いつまでお休みになるのですか? もう戦は終わってしまいますよ」 当然ながら返事はない。 紗也の頬にかかった髪を手でゆっくりと払い除け、頬に手を添えた。 「眠り姫を目覚めさせるのは王子様の接吻だっけ?」 そう言いながら身をかがめて、紗也に口づける。 触れた頬と唇の冷たさに、厳しい現実を思い知らされる。 身体を起こして少し紗也を見つめた後、和成は自嘲気味に笑った。 「……なわけないか」 そして紗也の髪をなでる。 「最後まで私の言う事は聞いて下さらないのですね。無事に戦を終えて結婚しようと約束したではないですか」 和成は静かに微笑みながら、紗也の髪や頬をなで続ける。 「私が誓ったんです。あなたを一生お守りすると。これでは逆です。あなたに守っていただくなど、護衛の私の立場がないではないですか」 少しして紗也から手を離し、白い布を元通り顔の上に掛けた。 「じきにそちらへお伺いします。もう少しお待ち下さい」 紗也の死を未だに受け入れられずにいるのか、こうして冷たく動かない紗也を見て、触れて、それでも涙が出て来ない。 焼け付くほどの深い悲しみを身の内に抱えながら、反応を示さない薄情な我が身を呪った。 ”戦が終わったら”そう言ったのは和成だ。あの言い伝えが本当なら、命を奪われるのは和成の方なのに。 和成は生き残り、代わりに命よりも大切だと思えるものを奪われた。 紗也の眠る寝台が見える窓際にすがって、和成は床に座り込む。 間断なく降り続ける雨音だけが、部屋の中に聞こえていた。 |
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