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3.



 その日の午後から進弥は自宅勤務となった。リスクを伴う極秘任務のため、会社のマシンやネットワークを使用するわけにはいかないからだ。
 課長が必要ならとノートパソコンの貸与を申し出てくれたが、ツールなどが入ったままになっている自分のパソコンの方が使い勝手がいいので断った。
 高木リーダーを始め、社内の人たちには課長が適当に説明してくれるという。残務の引き継ぎが終わると、進弥は家に戻った。
 玄関の扉を開けた途端、真純が立っていて進弥は驚いた。
「あれ? 出かけるの?」
「ううん。おまえが帰ってくる気配がしたから」
「気配って……」
 真純は本当に猫なんじゃないかと時々思う。実家で昔飼っていた猫も、進弥が帰ると玄関で待ち構えている事がよくあった。
「ただいま」
「おかえり」
 改めて挨拶を交わし、二人でリビングへ向かう。
 真純には余計な心配をさせてはいけないからと、課長が事情を説明してくれると言っていた。それで進弥が変な時間に帰ってきても、平然としているのだろう。
 リビングのソファに座り、どうやって探りを入れるか考えていると、真純がコーヒーを持ってきてくれた。隣に座った真純が尋ねる。
「おまえの偽者が出たんだって?」
「らしいね」
「どうやって調べるの?」
「考え中。だけど、課長からは、場合によっては手段は問わないって言われてるよ」
「え、それって……」
 真純の瞳が不安そうに揺れた。
「ハッキングもOKって事」
 課長は何かあったら、自分が全責任を負うと言った。もちろんそれは最悪の事態だ。そんな事にならないように、慎重に事を運ばなければならない。
 不安そうに見つめる真純を、進弥は笑いながら抱きしめた。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。いきなり危ない橋は渡らないって」
「……うん」
 真純はホッとしたように、少し笑顔を見せた。
 とはいえ、真純を騙すつもりはないが、危ない橋を渡らないためにも、ハッキングなしでは正直厳しいだろうと進弥は思っていた。
 アンダーグラウンドは一年以上もご無沙汰している。どんな風に様変わりしているのか見当も付かないのだ。
 一般の人々が普通にアクセスしている表のネット世界でも、日々新しいサイトやサービスが泡のように生まれては消えている。
 法に触れるような怪しいサイトがひしめいているアンダーグラウンドでは、わずか数時間で閉鎖してしまうサイトも珍しくはない。
 あの掲示板が今も健在だった事に、進弥は少なからず驚いていた。
 あまり時間がない事も事実だが、まずは表だって行動する事は控えて、状況を把握する事にした。
 アンダーグラウンドは真夜中に賑わう。あの掲示板も真夜中の方が活発だった。昼間のうちに過去ログを見ておく事にする。
 あいつの出現を待つなら、しばらくは真純と生活時間帯が合わなくなるだろう。
「ねぇ、真純さん。僕、明日からしばらくの間、朝ご飯いらないから」
「食べないの?」
「うん。多分真夜中から明け方までネット見てると思うから」
「じゃあ、夜食作ろうか?」
「いいよ。真純さんは早起きするんでしょ? 一食ぐらい食べなくても平気だし。だから先に寝てね」
「うん……」
 自分だけ先に寝るのが寂しいのか、気が引けるのか、あるいは夜食を断られた事にガッカリしているのか、真純は納得がいかないような表情をしている。
 進弥はニヤリと笑い、真純の耳元で囁いた。
「夜食が真純さんなら、喜んで頂くけど?」
「何言ってるの! ネット見るのは仕事なんでしょ?」
 案の定、真純は進弥の腕の中から逃れようともがいた。
「じゃあ、おやつだけちょうだい」
 もがく真純を腕の中に押さえ込んで、強引に口づける。すぐに真純はおとなしくなった。
 少しして腕の力を緩めると、真純は俯いたまま「もう!」とふてくされたように一言発して、進弥から離れた。
 そして進弥の飲み干したコーヒーカップを持って、リビングを出て行った。
 真純を抱いて一緒に眠れないのは、本当のところ進弥の方が寂しく思っている。けれど真純には真純の仕事と生活があるのだから、自分の時間に合わせて夜更かしさせるのは心苦しい。
 それよりも、アンダーグラウンドをうろついたり、ハッキングをしたりしている自分の暗黒面を、真純に見られたくないという思いが一番大きかった。




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