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5.



 目覚ましのアラームが作動を開始するカチリという小さな音で真純は目を覚ます。いつもの事だ。本格的に鳴り始めようとしたアラームを一音で止める。
 いつもならしばらく鳴らして頭が起きてから止めるのだが、今日はシンヤをもう少し眠らせてあげたかった。もっともシンヤはアラームが鳴っていても、気付かずに眠っている事も多いのだが。
 今も腕の中で真純がゴソゴソ動き回っているのに、全く気付いた様子がない。
 あたりはまだ薄暗い。
 真純はしばらくシンヤの腕の中で、その温もりに浸った。
 ゆうべはシンヤが偽者を探っている間、気になってろくに眠れなかった。灯りを消して布団に入ったものの、うとうとしては何度も目を覚ました。
 ようやく眠りについた途端、シンヤがゴソゴソと潜り込んできたのは覚えている。少しムッとしたが、起こさないように気を遣いながらそっと抱きしめられたら、その温もりになんだか安心して、いつの間にか眠っていた。
 真純はシンヤの腕の中から這い出し、ベッドの縁に腰掛けた。幸せそうに眠るシンヤの顔をじっと眺める。
 何が気になっているのかは分かっている。
 瑞希の命令とはいえ、シンヤが再び違法な事に手を染め、それが万が一にも発覚してしまえば、またここからいなくなるからだ。
 シンヤは絶対どこにも行かないと宣言した。きっと真純がかかえている不安を見透かされてしまったのだろう。
 シンヤが自分でいなくなる事はない。それは信じている。けれどシンヤの意思に関係なく、連れて行かれたら――。
 ゾクリと背筋がざわめく。真純はひとつ身震いをして上着を羽織った。シンヤの頭をそっと撫でる。相変わらずシンヤは、起きる気配がない。
 真純は少し微笑んで立ち上がり、部屋を出た。



 真純がいつも通りに朝食を終えても、シンヤは起きてこなかった。朝食はいらないと言われたが、起きた時何もなかったら寂しいだろうと思い、食卓の上におにぎりを作って置いた。
 シンヤを残したまま、真純はいつものように辺奈商事へ向かった。
 今日は七階の情報システム部まで上がってくるように言われている。二階のカフェは、一般人や他部署の人たちもいる。うっかりハルコやシンヤの極秘任務の事を話して、外部に漏れてはまずいからだろう。
 七階に上がり受付の呼び鈴を押そうとした時、左手の扉が内側から開き、高木が顔を出した。
 瑞希に用なのかと訊かれ頷くと、戸口から大声で呼んでくれた。外に出てきた高木は、ニコニコ笑いながら話しかけてきた。
「いいですね。自宅に恋人と二人きりで、イチャイチャ仕事ができるなんて。オレも早く彼女欲しいな」
 高木に悪びれた様子はない。調子のいいこいつの事だから、本気でうらやましがっているのだろう。だが、高木の言うような浮ついたものではないし、口外してはいけないので適当にごまかす。
「何言ってるの。お互いそれぞれ部屋にこもって仕事してるから、イチャイチャするヒマなんかないよ。私、シンヤが何やってるのか知らないし」
 本当に知らない。今回に限り事情の説明は受けたが、普段は何をしているのかさっぱり分からない。
 高木は意外そうに目を見開いた。
「仕事の話とかしないんですか?」
「しないよ。おまえは彼女にするの?」
 問い返すと、高木は苦笑した。
「まぁ、確かにしませんね。守秘義務がどうこうというより、女の子ってコンピュータの話なんかしたら引きますからね。”何それ、おいしいの?”って露骨に嫌な顔されたことありますよ」
 思わず吹き出したら、高木も一緒になって笑った。そこへ二人分のコーヒーを持った瑞希がやって来た。笑い合っている二人を見て、怪訝な表情をする。
「なぁに? 私が知らない間に随分仲良くなったのね」
「いやぁ、ちょっとした認識のズレがあっただけで、元々仲悪かったわけじゃありませんよ」
 高木はヘラヘラ笑いながら言い訳をして、部屋を出て行った。
 応接室に移動してテーブルにコーヒーを置きながら、瑞希はからかうように言う。
「高木くんと仲良くなったの? シンヤくんに言っちゃおうかな」
 真純は顔をしかめて否定する。
「そんなんじゃないよ」
 以前ヤキモチを焼かれた事があるので、勘弁してもらいたい。
 とりあえず、いつものように書類を交換する。瑞希はコーヒーを飲みながら興奮したように告げた。
「さすがね、彼。ゆうべ結構収穫があったみたいよ」
「シンヤから連絡があったの?」
「ええ。少し前にね。もうすぐ来るんじゃないかしら。データを持ってくるって言ってたから」
「データって……。シンヤ、ハッキングしたの?」
 危ない橋は渡らないと言っていたのに、その舌の根も乾かぬうちにハッキングを行っていたらしい。平然としている瑞希に苛ついて、非難するような口調になった。
 瑞希は真顔になり、毅然として言い放つ。
「私が命令して許可したの。あまり時間もないのに、こっちは相手の事ほとんど分かってないのよ。それに相手はシンヤくんと同レベルのハッカーなんだから、正攻法だけで通用するとは思えないわ。彼なら大丈夫だと私が判断したの。私が全責任を負うわ」
「そうだとしても、その時はシンヤだって無罪にはならないでしょう?」
 俯く真純に、瑞希は静かに問いかけた。
「真純。あんた何を心配してるの? 彼がまたいなくなると思ってるの?」
 真純が黙っていると、瑞希はクスリと笑った。
「バカね。この世からいなくなるわけじゃないでしょ? もしも連れて行かれても、あんたが信じて待っていればいいだけよ。犬は三日飼えば恩を忘れないんだから、必ず帰ってくるわ」
 顔を上げると、瑞希が微笑みながら頷いた。
「まぁ、彼って表向きは新入社員だから、私に命令されて言われた通りにやっただけだって事にすれば、執行猶予がつくんじゃない?」
「かもね」
 二人で顔を見合わせて笑った時、突然天井の照明が消えた。
「あら、停電?」
 瑞希は応接室を出て、天井を見上げる。受付の照明も消えていた。そのまま入口の扉を開けて廊下を覗く。
「全部消えてるわ。変ね」
 首を傾げながら瑞希が応接室に戻ってきたと同時に、照明が点灯した。
「なんなのかしら」
 瑞希は天井を見上げながら、益々首を傾げる。真純も同じように首を傾げた。
 これがハルコの発した最後のSOSである事を、この時には誰も気付いていなかった。




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