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第4話 苦い思い出




 昼休みを告げるチャイムが社内に響きわたる。私は早速パソコンのキーボードを脇によけて、机の引き出しから小さな保温バッグを取り出した。
 中にはザクロの作ってくれたお弁当が入っている。
 バッグから取り出した包みをほどくと、中から細長い楕円形で二段重ねのお弁当箱が現れた。
 上の段はおかずで下の段はごはんを詰めるようになっている。
 お弁当箱をまとめたゴムバンドをはずし、ふたつを並べてふたを開けた。
 思わず緩みそうになる顔を必死で押さえる。
 おかずエリアには、ザクロが得意な和食が並んでいた。
 インゲンのゴマ和えと鮭の塩焼き、里芋と椎茸の煮物。私がリクエストした卵焼きとタコさんウインナーも入っている。隅には真っ赤なミニトマトが添えられていた。
 ごはんエリアにはゴルフボールのように小さく丸められたおにぎりが五つ。てっぺんには黒ごまが振ってあって、お弁当箱の真ん中には、おにぎりの間に梅干しがひとつ入れてあった。
 両手を合わせた後、ゴマ和えに箸をのばした途端に、肩を叩かれた。
 誰よ。私の幸せなひとときを邪魔する奴は。
 私は箸を持ったまま、思い切り不機嫌を露わにして振り返る。
「海棠、久しぶり」
 のんきに笑いながら、体育会系の大男が私を見下ろしていた。
 あまりに懐かしい顔に、私の不機嫌はなりを潜める。
「本郷さん。どうしてここにいるんですか?」
「今日からこっち勤務になったんだ。朝一から直行で課長と一緒に客先へ挨拶周りしてきた」
 それで朝からずっと課長がいなかったのか。
 行き先表示版に「直行」しか書いてないから、どこに行ったのかちょっとした騒ぎになっていたのだ。
 本郷巧(ほんごうたくみ)は私の二年先輩で、私が新入社員の時、新人指導係をしていた。
 見た目通りの体育会系で、学生時代からやっていたサッカーを今も社内の同好会でやり続けている。
 面倒見もよく、時々私も含めた新入社員を引き連れて飲みに行ったりもした。
 三年前に東京支社に転勤になって、それきり疎遠になっていたのだ。
「東京でいらないって言われてお払い箱になったんですか?」
 からかう私を見下ろして、本郷さんは頭を叩くフリをする。
「ばーか。昇進して帰ってきたんだから、お払い箱じゃねーよ」
「え、すごい。おめでとうございます」
「今日からおまえの上司だ。係長とお呼び」
 ふたりで少し笑った後、本郷さんは行き先掲示板の社員名を眺めてしみじみと言う。
「おまえの同期って、みんないなくなっちまったなぁ。女子はおまえだけか?」
「はい。みんな寿退社しました」
 元々、私が入社した年は不景気で新入社員が少なく、男女それぞれ三名ずつしかいなかった。
 男子は東京や他の支社に転勤になり、女子は私ひとり残して早々に結婚退職してしまったのだ。
「おまえもそろそろか? 弁当作ってくるなんてずいぶん女らしくなったな」
「コンビニ弁当に飽きちゃっただけです」
 机の上に広げたザクロの弁当を目ざとく指摘する本郷さんを、私は苦笑をたたえてサラリと躱す。
 女らしいどころか、そんな女らしいことは全部ザクロが担当している。私の女子力は一層低下したと言ってもいい。
 だいたい他の人に見えないとはいえ、ザクロを従えたままで結婚なんてできるわけがない。
 私が適当に言い逃れた事を察したのか、本郷さんは思い出したくもない事を指摘した。
「でもおまえ、オレが転勤になるちょっと前に、彼氏ができたっておまえの同期から聞いたぞ」
「去年別れました」
 まるでなんでもないことのように、笑顔を作って答える私に、本郷さんは少し申し訳なさそうな顔をする。
 そんな顔されると、よけいに痛いんですけど。
「そうか。悪かったな」
「いいえ。もうずいぶん前のことですし」
「じゃあ、オレ、昼飯に行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
 気まずそうにごまかして、本郷さんはそそくさと立ち去った。
 私は再びお弁当に向き合う。あんなに楽しみにしていたザクロのお弁当を前にしているのに、私の気分は急降下。
 忘れたと思っていた、いやなことを思い出した。今考えても、どうすればよかったのか未だにわからない。
 彼とはお互いに納得の上で別れたわけではない。私が一方的に別れを告げられたのだ。


「もうおまえとはつき合っていられない。オレと仕事とどっちが大事なんだよ」


 最後に彼はそう言い残して、二度と私とは会っていない。
 たぶん不満が積もり積もっていたんだろうと思う。私が仕事を理由に約束を反故にしたのは一回や二回じゃなかったから。
 でも男と会うために仕事を放り出してしまうのもどうかと思うのよ。だから彼の問いには答えられなかった。
 こんな事言うのは女だけかと思ってた。男に言われた女って私くらいかもしれない。
「そんな質問させてごめんね」って答えれば、丸く収まる。って最近ネットで知った。
 もっと早く知りたかったわ。それで私たちの仲が丸く収まったかどうかはわからないけれど。
 あれ以来、電話もメールも拒否された。対応がいちいち女みたいで、なんかもう面倒くさくなって放置しているうちに、ちゃんと話もできないまま自然消滅してしまった。
 私の諦めも早すぎたかもしれないとは思う。けれどちゃんと別れてないから、未だに思い出すと不愉快なのだ。
 ちょっとイラッとしながら、改めてお弁当に箸をのばす。ゴマ和えを口に放り込んで、一口かみしめた途端、私はにんまりと頬をゆるめた。
 口の中に広がる鰹だしとゴマの香ばしい風味に、気分は一気に浮上する。
「うまっ」
 思わずつぶやいて、おにぎりをつまむ。後はもう夢中でお弁当を堪能した。
 我ながらお手軽な性分だと思う。ザクロが指摘したとおり、私はおいしいものを食べているときが一番幸せを感じるようだ。



 今日は久しぶりに定時で上がった。本郷さんが飲みに行かないかと誘ってくれたが、用事があると断った。
 こってりした居酒屋メニューとビールも、たまにならおいしいと思うけど、やっぱりザクロのごはんが一番おいしい。
 会社の入っているビルから自動ドアを抜けて外に出ると、ドアのすぐ脇でザクロが待っていた。
 恭しく頭を下げた後、黙って私の後ろをついてくる。
 ザクロが毎日送り迎えをするのは、行き帰りに私が危険な目に遭わないようにということらしい。
 料理上手な執事はボディガードも兼ねている。
 すでに日は落ちて、冷たい北風の吹き抜ける中、私は足早に家路をたどった。
 駅に向かう横断歩道の手前で、道路の向こうに見知った顔を見つけて、私の足はピタリと止まる。
 昼間思い出して不愉快になった彼が、隣にいる女の子と手をつないで楽しそうに話をしていた。
 ふたりの世界に浸っているようで、こちらには気づいていないようだ。
 そっか。もう新しい彼女ができたんだ。
 私はあなたのせいで男なんか面倒くさいと、次に進めずにいたというのに。
 別れた後で彼がどうしていようと彼の自由だし、私にも落ち度があったのだから仕方ないとは思うけど、なんかもやもやする。
 信号待ちの人影に隠れて、幸せそうな彼を見つめていると、なんだかまた不愉快になってきた。
 そうしているうちに信号がかわり、人波が動き始めた。彼がこちらに近づいてくる。
 私は咄嗟に横断歩道の右手へ進路を変え、急いで走り去った。
「頼子、道が違いますよ」
 ザクロが不思議そうに声をかけるが、それどころじゃない。一刻も早く彼のいないところに行きたい。
 次の信号まで走って、私はようやく立ち止まった。
 すっかり息が上がっている私を、ザクロが心配そうに覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「うん……。平気。帰ろうか……」
 小声で答えたとき、信号が変わった。私は横断歩道を渡って駅に向かう。
 ザクロは何も言わず、黙って後ろからついてきた。
 何やってんだろう、私。なんで逃げなきゃならないの。むしろ、あんな言葉ひとつで引導を渡した彼の方こそ、後ろめたいはずなのに。
 不愉快な気分を引きずったまま、私は電車に乗り、家へ帰った。



 せっかく定時で上がったのに、何もする気になれなくて、私は早々に床についた。
 本当は撮り溜めているテレビドラマを見たり、ネットで無料の乙女小説やマンガを見たりしようと思っていた。
 昼に思い出した彼が、私にとっては最悪の状態で目の前に現れて、気分は沈む一方だ。
 それでもザクロの作った夕食を食べている間は、まだ気持ちが和らいでいた。
 けれど灯りを消して布団に潜った途端、またぐるぐると頭の中に彼の姿が浮かんでくる。
 私の気持ちが沈んでいることはザクロもわかっているようだ。そしてその原因に触れて欲しくないことも察している。
 何も言わずにハーブティーを差しだし、黙って私の行動を見守った。
 灯りを消して挨拶をすると、ザクロはいつも姿を消す。気配も消えるので部屋の中にいるのか、外に出ているのかは判断できない。
 いつか尋ねたとき、部屋の中にいることも、外に出ていることもあると言われた。
 ザクロは眠らない。ずっとそばで見ていたら、私が落ち着いて眠れないだろうという配慮らしい。
 今日も暗い部屋の中に、ザクロの姿はない。私が元彼のことにとらわれて、何度も寝返りを繰り返していると、姿の見えないザクロが静かに問いかけてきた。
「頼子、眠れないのですか?」
「ザクロ、いたの? 姿を見せて」
 部屋の真ん中にザクロが現れる。そしてベッドのそばまで来て座った。
 横になった私を、心配そうに覗き込む赤い瞳と視線が交わる。私は少しホッとして、微かに笑みを浮かべた。
「帰りに頼子が見ていた男性の事が気になるのですか?」
 気づかれていたらしい。あれだけ凝視していれば当然か。
「あの人ね、昔つき合ってた人なの」
「恋仲、だったんですね」
「うん。私がいつも仕事が忙しいって言ってたから、おいしいものを食べてストレス発散しようって誘ってくれたのに、仕事が忙しくて行けないって言ったらふられちゃったの」
 私は彼の気遣いを無にしたのだ。それまでも何度か仕事のせいで約束を反故にしている。そのたびに彼は「仕事なら仕方ないね」と許してくれていた。
 本当は聞きたくもないはずの仕事の愚痴を黙って聞いてくれたし、一緒に食事に出かけると私の食べたいものを優先してくれる。
 そういう優しいところが好きだった。けれどいつの間にか、私はその優しさを当然のことと勘違いして甘えていたのだろう。
 彼が我慢の限界を越えるまで、私は彼を思いやってはいなかった。今頃気づいても遅すぎる。
 破局の原因は自分だとわかって、もやもやとした不快感は消えたけど、今度は情けなくなってきた。
 視線を外して黙り込んだ私の頭を、ザクロが優しく撫でる。
 ザクロには私の気持ちが沈んでいることが伝わっている。私はわざと、おどけてみせた。
「ごめんね。私が落ち込んでるとザクロがお腹すかせちゃうんだよね」
 ザクロは私の頭を撫でながら、口元に少し笑みを浮かべる。
「私は大丈夫です。辛いのなら、泣いてもいいんですよ」
 いまさら涙なんか出ない。元々自分が悪いんだし。
 だけど、少しだけ甘えさせて。
「私も大丈夫。明日には元気になるから。でも、もう少しだけそばにいて」
「かしこまりました」
 そう言ってザクロは、私が眠りにつくまで、優しく頭を撫で続けた。




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