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第6話 使えない新人と気配り上司




「頼子、私を目覚めさせてくれて、ありがとうございます」
 ザクロがキラキラ笑顔で私に礼を言う。
 いや、そんな、改めて言われなくても、おかげさまで私もすっかり頼りにしてるし。
「ずっと一緒にいてもいいですか?」
「うん」
 だって、私が死ぬまで離れられないんでしょ?
「では、私と夫婦(めおと)になってください」
「は?」
 なに? いきなりどうしちゃったの?
 いや、そりゃあ、ザクロのこと嫌いじゃないけど、まずは恋人から……って、そういう問題じゃなくて。
 すっかりパニックを起こした私を、ザクロはいきなり抱きしめた。
「頼子、愛しています」
 近づいてくるザクロの顔を正視できず、私はぎゅっと目を閉じる。
 ちょっと、困るーっ!
「頼子」
「や、ちょっと……」
 ザクロの身体を突き放そうと、突っ張った腕が布団を跳ね上げた。
 あれ?
 目を開くと私はベッドの上に寝ていた。目の前ではザクロが不思議そうに私を覗き込んでいる。
「どうかしましたか?」
「あ……」
 夢……か……。
 私はため息と共に体を起こし、曖昧な笑みを浮かべた。
「なんでもないの。ちょっと変な夢見ちゃったから」
「そうですか」
 それ以上追及することなく、ザクロはあっさり引き下がる。いや、追及されても困るけど。
「朝食の準備が整っています」
「ありがとう」
 いつものように私が食卓に着くと、ザクロが熱いお茶を淹れて差し出してくれる。
 先ほどの夢を思い出して、なんだか気まずい私はザクロと目を合わせられずにいた。
 どうしてあんな夢を見ちゃったんだろう。
 ザクロと一緒にいたら結婚できないことはわかっている。だからといってザクロが見えなくなるほど、彼の存在を無視するなんてできない。
 ザクロに依存しないということは、彼が私のためにしてくれることすべてを拒絶するということだ。
 拒絶したらザクロはどう思うだろう。この間見た寂しそうな顔が目に浮かぶ。
 あんな顔見たくない。
 だからなのかな? いっそザクロと結婚しちゃえばいいじゃない。そう思ってるってこと?
 いやいやいや、いくらなんでもそれは短絡的すぎるというか……。
 そもそも私ひとりで、どうこうできることじゃないし。どっちにしろザクロの意思を無視してる時点で破綻している。
 あれは夢! 美形執事とお嬢様のラブラブ妄想が見せた幻なのよ。
 私は茶碗を手に取り、豆ごはんを口に運ぶ。
「あ、これおいしい。豆がグリーンピースじゃなくて枝豆なのね。ひじきとよく合ってる」
「ありがとうございます。今は旬じゃない野菜も容易く手に入るので助かります」
 料理を誉めるとザクロは嬉しそうに笑う。やっぱりこの笑顔を見る方がいい。
 依存したっていいじゃない。それでザクロが幸せそうに笑っていられるなら。



 会社で唯一の至福の時、お昼休みのチャイムを聞いて、私はお弁当を机の上に広げる。
 ふたを取ろうとしたとき、ふたつ向こうの席から本郷さんが声をかけた。
「海棠、昼一の会議資料、どうなってる?」
「え? まだ受け取ってないんですか?」
「来てないと思うぞ」
 本郷さんは自分の机の上にある書類をあちこちめくって確認する。
 資料は整っていた。印刷して閉じるだけでいいし、他に急ぎの仕事があったので、新人の坂井くんにできたら係長に渡してくれと頼んだのだ。
 どうなってるのか尋ねようにも、食事に出かけたのか、彼が席にいない。
 くっそー。係長じゃなく私に渡すように言えばよかった。昼一に必要だからって朝言ったのに、印刷するだけで何時間かかってるのよ。たぶん忘れてる。
 そもそも彼は何度言っても、頼まれた仕事を終わったかどうか報告しない。
「すぐ用意します」
 私は一旦お弁当を片付けて、会議資料の印刷を始めた。
「悪いな、昼休みなのに」
 本郷さんは苦笑しながら労ってくれたが、食べ物の恨みは根深いのよ。
 おのれ坂井、よくも私の幸せを邪魔したわね。
 私が資料を整えて本郷さんに手渡したとき、コンビニのレジ袋を下げた坂井くんが帰ってきた。
 何食わぬ顔で私の机の後ろにある自席に着こうとする。私は歩み寄って、努めて静かに尋ねた。
「坂井くん、朝頼んだ会議資料の印刷、どうしたの?」
「え? まだですけど、昼一でいいんですよね?」
 まったく悪びれた様子のない彼に、私はすっかり脱力してがっくりと肩を落とす。
 何を聞いてたのよ、こいつ。
「昼一の、会議で、必要だって言ったでしょ?」
「えー? 昼一でいいんだと思ったのに」
 言うことはそれだけか。
 確認しなかった私も悪いけど、ミスをしたのは坂井くんだ。ひとこと「すみません」くらいは言うのが普通だと思うけど、こいつは今まで一度も謝ったことがなかった。社会人としてどうかと思う。
 なんでこんな奴の指導係になっちゃったんだろう。
 我が身の不運を呪いながら、私はため息混じりに諭した。
「もういいわ。私がやったから。今度からはちゃんと話を聞いてね」
「はい」
 一応返事はしたものの納得がいかないのか、まだ小声でブツブツ言っている彼に背を向けて席に着く。
 文句言いたいのはこっちの方だっての。
 再びお弁当を広げた私の肩を、通りすがりに本郷さんが軽く叩いて行った。
 お疲れさんってことだろう。
 お弁当のふたを開けて、私の気分は急浮上する。やっぱりザクロのお弁当の威力はすごい。
 これがなかったら、私は味気ないコンビニ弁当を食べながら益々不愉快を募らせていたかもしれない。
 よし。昼からまたがんばろう。
 あんかけ豆腐ハンバーグを頬張りながら、私は密かにガッツポーズをした。



 今日は坂井くんに呪われているとしか思えない。また終了報告を怠ったのだ。指導係の私が彼の仕事をチェックしなければならないことは知っているくせに。
 昼間注意されたことの仕返しだろうかと勘ぐってしまう。ため息をついた途端におなかが鳴った。
 壁の時計に目をやると、すでに八時半を回っている。フロアの奥にある課はすでに全員退社して灯りが消えていた。
 ザクロの晩ご飯を思い描きつつ、なんとか仕事を片付けてパソコンの電源を落としたとき、別のフロアに行っていた本郷さんが帰ってきた。
 私の姿を見て、驚いたように言う。
「なんだ、まだ残ってたのか?」
「もう帰ります」
 帰り支度をする私の机に置かれた書類を見て、本郷さんが指摘した。
「それ、坂井の仕事だろう? 本人はどうした?」
「用事があるとかで、定時で帰りました」
「ったく。しようがない奴だな」
 本郷さんは呆れたようにため息をつく。そしてニッと笑いながら私の肩を叩いた。
「よし、一緒に晩飯食いに行こう。奢るぞ」
「ごめんなさい。家に夕飯の支度してきたので」
 支度をしたのはザクロだけど。
 私が即座に断ると、本郷さんは不満げに顔をしかめた。
「なんだ、最近つき合いが悪くなったな」
「前もって誘ってくれたら、喜んで奢ってもらいますよ。じゃあ、今日は失礼します」
「あぁ。お疲れ」
 本郷さんに挨拶をして私は会社を後にする。ビルを出るとザクロが待っていた。
 いつものように私の後をついてくる。私は少し振り返って笑顔を向けた。ザクロも笑顔で応える。
 そのままいつものように黙って家路についた。



 海棠を見送った後、オレもすぐに会社を後にした。外に出ると、少し先を海棠が歩いている。
 もう遅いし、駅まで送って行こう。そう思って歩を早めたとき、海棠の後ろに不審な男がいるのに気づいた。
 派手な赤毛に燕尾服。見るからに怪しい。もしかしてストーカーか?
「海……」
 慌てて声をかけようとしたとき、海棠が振り向いた。怪しい男を見つめて笑みを浮かべる。
 なんだ、知り合いだったのか。
 ホッとしたと同時に一抹の寂しさを感じた。
 声をかけるのはやめて、二人の後ろに距離を置いて駅に向かう。
 ふいに赤毛の男が振り向いた。海棠は気付かず、そのまま歩いている。
 男はオレと目が合うと、フッと余裕の笑みを浮かべ、すぐに向き直って海棠の後ろに従った。
 なんだ、その挑戦的な目は!
 海棠に今、彼氏はいないと聞いている。怪しい赤毛の男と彼女の関係が無性に気になった。




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