前へ 目次へ 次へ

第8話 クリスマスの攻防




 どうやらオレは海棠から警戒されているように思う。食事に誘ってもうまくかわされるし、ようやく承諾を得たかと思うと、友達を連れてくる。それとなくクリスマスの予定を聞いてみたら、友達とホームパーティの予定があると言っていた。
 焦ってしつこくしすぎたかなと少し反省中。
 オレを焦らせたのは、あの赤毛の男だ。この間、みんなで飲みに行った時にも、店の外に立っていた。
 おそらく海棠を迎えにきたのだろう。
 オレがあの男に気付いたことを海棠にもわかっていたはずなのに、どうして紹介してくれなかったのだろう。坂井がいたからか?
 海棠に彼氏はいないと聞いている。彼氏でないなら、坂井がいても紹介するのに問題はないはずだが。
 それとも彼氏がいること自体知られたくないということなんだろうか。
 あの男と海棠の関係が気になって、オレは益々急かされているような気分になった。
 また手遅れだったんだろうか。
 三年前、海棠に想いを告げようとした矢先、東京への転勤が決まった。想いを告げて、彼女が受け入れてくれたとしても遠距離になる。そう考えてためらっているうちに、海棠に彼氏ができたという話を聞いた。
 ぐずぐずしている隙に、横からさらわれたのだ。
 遠距離で彼女も自分も寂しい想いをせずに済んだ。そう思って捨てたはずの想いが、その彼氏と別れたと聞いて再燃した。
 別れて傷ついている彼女の心に、つけ込むようなまねはしたくない。
 だからもう少し慎重に時間をかけて距離を縮めていこうと思っていたのに。
 あの男の存在が、オレの心を乱し、焦らせる。
 今度こそは手遅れになりたくないから。



 忘年会が終わると、社内は年末年始に向けて一気に慌ただしくなる。世間ではまだクリスマスが残っているが、我が社はクリスマス商戦とは無縁のOA機器販売及びリースを行っている。
 どちらかといえば、年賀状の印刷などでプリンタが必要になる年末の方が忙しい。
 というわけでクリスマスなどないのだ。と去年までは私も思っていた。けれど今年はクリスマスが待ち遠しい。
 なにしろザクロがクリスマスケーキとディナーを用意してくれるのだ。
 以前の彼とレストランでディナーを頂いたことはあるが、慣れない高級感に気後れしてあまり楽しめなかった。
 ザクロのディナーは家なので、くつろいで頂けるのが一番のメリットだと思う。どんなご馳走が頂けるのか毎日楽しみで、残業も坂井くんの妨害も苦にならないほどだ。
 指折り数えて今日はクリスマスイヴ。今日は絶対定時で帰る。そう決意して、朝から仕事の段取りも根回しも万全なのだ。買い物も昨日済ませてある。
 ようやく終業のチャイムが鳴り、私はいそいそと帰り支度を始めた。本郷さんはあらかじめ私の予定を知っている。自分より先に帰る私を珍しそうに見つめる坂井くんと本郷さんに挨拶をして、私は会社を出た。
 いつものように迎えに来たザクロと一緒に、駅前のスーパーに向かう。店の中はどこもクリスマスの飾りで、赤と緑と金色に彩られていた。
 目当てはスパークリングワイン。クリスマス用にディスプレイされた陳列棚から、私は一番上の段にある黄色いラベルの張られた瓶を手に取った。
 シャンパーニュの有名銘柄、ヴーヴ・クリコのイエローラベル。ちょっと高いけど、こんな時でもなければ飲む機会はないような気がする。
 ザクロのディナーに合わせて、一緒に飲んでみよう。
 私は迷わずヴーヴ・クリコを買って店を出た。



 家に帰ると玄関にはすでに、いい匂いが漂っている。思わず頬がゆるみ、同時にお腹は鳴った。
「すぐ食事になさいますか?」
「うん。着替えるから少し待ってね。あと、お皿は二人分用意して。ザクロも一緒に食べよう」
「かしこまりました」
 ザクロを玄関脇のキッチンに残して、私は奥の部屋に駆け込み急いで部屋着に着替える。そして食卓にもうひとつイスを用意した。
 買ってきたワインを開けてグラスに注ぐ。本当はフルートグラスの方が泡がきれいに立つんだけど、うちには普通のワイングラスしかない。
 ワイングラスをそれぞれセッティングしたとき、あまり広くないテーブルにとりあえず前菜が運ばれてきた。
「ジャガイモのポタージュと白身魚のカルパッチョです」
 私はイスに腰掛けて、ワインを一口飲む。やっぱり本物のシャンパーニュは辛口でさっぱりしている。
 おいしいけど、もったいないので一気に飲むのはやめよう。この間のように酔っぱらったら恥ずかしい。あの後、そのまま眠ってしまった私を、ザクロがベッドまで運んで寝かせてくれたらしいのだ。
 私はグラスを置いて料理に手をつける。
 白いスープの表面には生クリームで丸く円が描かれ、真ん中にパセリのみじん切りが散らしてある。コンソメ風味のスープはすりつぶしたジャガイモとみじん切りにしたタマネギがトロリとして舌触りがいい。
 カルパッチョの皿は、中央にスライスした紫タマネギと赤や黄色のパプリカが盛りつけられ、その周りに薄くスライスした白身魚が整然と並べられ塩とオリーブオイルにバルサミコ酢で味付けされていた。皿の隅にはまるでバラの花のようにデコレーションされたスモークサーモンも添えられている。
 崩すのが惜しいけど、やっぱり食べたい。私はふたつの皿にカルパッチョを取り分けて、ザクロを促した。
「ザクロも食べて」
「はい。いただきます」
 にっこり笑ってザクロも席につき、ワインを口にした。
「発泡性のぶどう酒ですか。さわやかでおいしいですね」
 そう言ってザクロはもう一口ワインを飲む。どうやらシャンパーニュが気に入ったようだ。
 それから食事をしながら、ザクロが見たテレビの話を聞いたり、会社の話をしたりした。
 そして前から気になっていたことを私はザクロに尋ねた。
「ねぇ、ザクロって昔からよく料理とかしてたの?」
「いいえ。ほとんどしませんでした。以前の主からは求められていませんでしたので」
「へ? 以前の主ってなにを求めてたの?」
「だいたいは、望む姿でそこにいればよかったんです」
 うーん。よくわからない。ザクロを観賞してたんだろうか。確かに自分好みの男前なら、見とれてしまうのかもしれないけど。私も時々ザクロに見とれるし。
「頼子は特別です。頼子のような主は初めてです」
 どういう意味なんだろう。ちょっと微妙。
 少し笑顔をひきつらせる私を、ザクロは穏やかな笑みを浮かべて眩しそうに見つめた。
「頼子との絆が終わりの時を迎えても、私は頼子のことを忘れないと思います」
 やばっ! またきゅんとしちゃった。
 どうしてそういうことを、サラリと臆面もなく言っちゃうのかなぁ。誤解しそうになるじゃない。
 ザクロは私の生気を糧として生きる妖怪。私を喜ばせるのは、その方が生きる糧を多く得られるからなのに。私の心を揺らす感情と、妖怪の行動原理とは一緒じゃない。
 私が冷静さを取り戻したとき、キッチンでオーブンレンジのアラームが鳴った。それを聞いてザクロは席を立つ。
「次の料理をお持ちしますね」
 そう言って空いた皿をまとめてキッチンに向かった。
 少ししてふたつの皿を持ったザクロが戻ってきた。
「ローストビーフです」
 目の前に置かれた皿には、真ん中にスライスしたミディアムレアのローストビーフが数枚盛りつけられ、ジャガイモと赤や黄色のパプリカが添えられていた。ビーフの上と皿の縁を飾るように、褐色のソースが垂らされている。
 ザクロが席に着くのを待って、私はナイフとフォークを手に取った。
 肉を切り分けソースを絡めて口に運ぶ。バルサミコ酢をベースにした少し酸味のあるソースがジューシーな肉汁と共に口の中に広がった。
 思わずフォークとナイフを握りしめてうなる。
「お肉おいしー」
「ありがとうございます」
 ザクロは嬉しそうに笑って、優雅に肉を口に運んだ。
 食べたものがどこに消えてるのかちょっと不思議。ザクロって元々食べないからトイレにも行かないんだよね。
 などと、どうでもいいことを考えながら、おいしい料理を存分に堪能する。
 食べ終わった食器を片付けて、ザクロはコーヒーを運んできた。
「ケーキはもう少し後になさいますか?」
「大丈夫。別腹だから」
 私が即答すると、ザクロはクスリと笑ってキッチンに引き返した。
 再び現れたザクロがテーブルの上に置いたケーキを見て、私のテンションは一気に跳ね上がる。
「ブッシュドノエルだーっ!」
「はい。代表的なクリスマスケーキだと指南書に書いてありましたので」
 代表的と言われていても、実は食べたことがない。実家にいる頃はいつも丸いケーキだったし、一人暮らしを始めてからはワンピースのショートケーキしか買わなかったから。
 ザクロの作ったブッシュドノエルはキャラメル色だ。直径十センチほどのロールケーキに小さなロールケーキの切り株が載って、キャラメル色のクリームで周りをコーティングされている。
 木肌を模したシマシマの溝が刻まれたクリームの上には、イチゴとブルーベリーやラズベリーが並べられ、銀色のアラザンと雪のように粉砂糖が振りかけてあった。
 ザクロが切り分けてくれたケーキの中心には、真っ白な生クリームの中にイチゴが丸ごと巻き込まれている。キャラメル色のクリームはモカクリームで、ほんのりとコーヒーの香りがした。
 トッピングのイチゴと共にモカクリームの載ったふわふわのスポンジを口に含み、私は目を細める。
「相変わらず、ザクロの作ったケーキって絶品すぎる」
「ありがとうございます」
 ザクロもケーキを食べながら、不思議そうに話しかけてきた。
「クリスマスってキリシタンのお祭りなんですね。国中でお祝いするようになってたのには驚きました」
 いや、日本のクリスマスはキリシタンあんまり関係ないから。
 絶品ケーキを食べ終わり、ワイングラスを傾けながら、私は大きくため息をもらした。
「はぁ〜満足。すごくおいしかった。ザクロ、ありがとう」
「どういたしまして」
「ザクロってどこかのレストランでコックさんになれるよね」
「コックさん?」
「料理人のこと。ザクロがいるお店なら本郷さんを連れて行ってあげるのにな」
 ふたりきりはないけど。
「本郷さんって、この間一緒に食事をした人ですか?」
「うん。何度か食事に誘われたんだけどね。ふたりきりだと気まずくて、ずっと断ってたの」
「迷惑してるんですか?」
 あれ? なんかザクロ、声が低い。目が据わってる?
「迷惑じゃないけど、何度も誘ってくれるのに断ってばかりでちょっと悪いかなぁって思ってて」
 私がためらいがちに言い訳をすると、ザクロはあっさり引き下がった。
「そうですか」
 なんだか微妙な空気を追い払うように、私はザクロにワインの瓶を差し出した。
「飲もう。これ、明日まで置いたら気が抜けちゃうから」
「はい。でも頼子は明日も仕事ですよね? あまり飲み過ぎないように気をつけてくださいね」
「うん」
 笑顔の戻ったザクロと一緒に、私は高級シャンパーニュを存分に味わった。



 昨日海棠は、予定通り定時で会社を出ていった。話を聞くと、料理上手な友人が腕を振るってくれたそうで、ホテルディナー並の料理を満喫したらしい。
 ただ、少し飲み過ぎたので、今日は家でゆっくりするつもりだと言う。
 せっかくの定時退社日だというのに、オレはまたしても空振りに終わった。まぁ、クリスマスだから、今から店を当たっても、どこも予約で一杯だろうけど。
 毎週定時退社日には、社内の仲間とフットサルをすることにしている。クリスマスだというのに寂しいひとり者はオレだけじゃなかったので、いつものように近所の河川敷にある運動場に集まった。
 そこは夜になるとライトが点灯し、運動場を照らしてくれる。オレたち以外にも、キャッチボールをしている者や、土手のコンクリート壁に向かってテニスボールを打っている者など、会社帰りの社会人が何人かいた。
 二時間ほど汗を流して、みんなはそれぞれ帰って行った。オレはベンチに腰掛けて、ペットボトルのスポーツドリンクを飲む。見上げる夜空には冬の星座が輝いていた。オリオン座くらいしかわからないが。
 ふと気付くと、周りには誰もいなくなっていた。
 真冬の夜風に汗が冷えて、オレはひとつ身震いをする。立ち上がってダウンジャケットを羽織り、帰ろうとしたとき、進行方向に人影があった。ギクリとして足を止める。
 あの赤毛の男だ。
 相変わらずの燕尾服が、河川敷の運動場であからさまに浮いている。
 男は薄い笑みを浮かべ、オレをまっすぐ見据えたまま問いかけた。
「こんばんは。本郷さんですね?」
「あぁ。君は?」
「頼子の執事です」
 執事? からかっているのか? 見た目は確かに執事のコスプレのようだが。
「その執事さんがオレになんの用だ?」
「頼子を困らせないでください」
「は?」
「頼子をしつこく誘っているでしょう?」
 こいつ、オレを牽制しに来たのか?
「別に困らせてはいない。彼女の意見を尊重している。そもそもそんな事を君に言われる筋合いはない」
「そうですか」
 男は静かにつぶやいてスッと右手を前に伸ばした。そして手のひらをこちらに向けて薄笑いを浮かべる。 背筋にゾクリと悪寒が走った。こいつ、絶対普通じゃない。こんな怪しい奴につきまとわれてるなんて、今すぐ海棠に忠告しなければ。
 そう思ってポケットの電話を取り出そうとした時、体の自由が利かないことに気付いた。
 まるで縫い止められたように足は一歩も動かない。頭も腰も腕も指先すらも、コンクリートで固められたかのように微動だにしない。次第に息も苦しくなってきた。
 ぎゅっと目を閉じてみる。まぶたは動くようだ。口もかろうじて動く。それを確認して目を開いた。
 その一瞬のうちに、男が音もなく目の前に迫っていた。至近距離で見つめる瞳が赤い。感情の見えないその目にぞっとする。
 男はオレの顔を覗き込むようにしてニタリと笑った。
「あなたを消してしまうのは簡単ですが、頼子がそれを望みません。だからお願いに来たんですけどね」
 どこがお願いだ! 脅迫じゃないか!
 叫びたいところだが、口からは空気が漏れるだけ。
 酸欠の金魚のごとく口をぱくぱくさせるオレを憐れむように見つめて、男はフッと笑みを浮かべた。
 そしてオレから離れて背中を向ける。それと同時に、体の呪縛が解けた。オレは崩れるようにひざを折って地面に両手をつく。
 ゼイゼイと息を荒げながら見上げると、男が背中を向けたまま肩越しに振り向いて見下ろしていた。
「私の力をわかって頂けたなら、少し考え直してください」
 その涼しげな横顔を見ていると、沸々と怒りがこみ上げてくる。オレはおもむろに立ち上がり、足元にあったサッカーボールを男の背中めがけて思い切り蹴り込んだ。
「ふざけるな!」
 背中の真ん中にサッカーボールがヒットしたと思った瞬間、男の姿は霧のようにかき消えた。ボールはそのまま空を切り、夜の闇の中にまぎれていく。
「なに?」
 想像もしていなかった事態に、オレはしばし呆然と立ち尽くした。
 あいつは何者なんだ? 幽霊?
 とにかく海棠に知らせようとポケットから電話を取り出す。だがふと気になって手が止まった。
 海棠はあいつの正体を知っているんだろうか。おかしなコスプレも気にしていないようだし、知っていてつき合っているような気もする。
 だとしたら、オレが忠告するのはよけいなお世話ではないだろうか。
 海棠から直接聞き出すには会社にいる時しかないようだ。社外ではあいつが張り付いている。
 明日、会社でなんとか聞き出してみよう。
 そう決意して、オレは電話をポケットにしまった。




前へ 目次へ 次へ


Copyright (c) 2014 - CurrentYear yamaokaya All rights reserved.