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第9話 空中散歩




 クリスマスが終わると、息つく間もなく冬休みに突入した。
 あれから本郷さんは食事に誘ったりはしない。一度みんなで飲みに行ったから満足したのか、単に社内ですれ違っていたからかはよくわからない。
 年末は忙しいので、私が外回りに出ていたり、逆に本郷さんが客先に行っていたり、会議の連続で終日席にいなかったり、とにかく滅多に顔を合わせることがなかった。
 朝と帰りの挨拶くらいしか口を利かない日もあったくらいだ。そしてそのまま冬休みになった。
 ひとつ気になることはある。クリスマスの翌日だったと思う。帰宅しようとしていた私は、ビルの出口で客先から帰ってきた本郷さんと鉢合わせした。
 出口の脇にはいつものようにザクロが迎えに来て立っている。本郷さんはチラリとザクロのいる方を見て、険しい表情をしたのだ。
 でもそれはほんの一瞬で、すぐに私に笑顔で挨拶をしてビルの中に入って行った。
 もしかして本郷さんにはザクロが見えているんだろうか。飲み会の帰りにもザクロの方を見ていたし。
 彼が霊感の強い人だとは聞いたことがないけれど、休み明けにでも聞いてみよう。
 そんな事を考えながら、私は帰省のための荷物をまとめた。
 結局忙しくて、実家に帰るのはザクロの繭を見つけた時以来だ。ザクロにとっては数百年ぶりの故郷になる。油断して親のいる前で彼に話しかけないように気をつけないと。
 今日はこの冬一番の寒さだという。どうして毎年年末年始は”この冬一番”とかの寒さになるのか不思議だ。
 風邪を引かないようにと心配するザクロに促されながら、しっかり着込んで私は家を出た。
 しっかり着込んでいても、外にでると刺すように冷たい空気が唯一むき出しの顔を刺激する。風がないのが救いかもしれない。
 どんよりと重い雲に覆われた低い空から、今にも雪が降りそうで、あたりはまだ日が落ちていないのにかなり薄暗い。
 いつものようにスーツだけの薄着なザクロが、見ているだけで寒い。駅に向かって歩きながら、私はこっそりお願いした。
「ねぇ、コートくらい着てくれる?」
「かしこまりました」
 返事をした次の瞬間に、ザクロはコートを羽織っている。どういう仕組みなのかはわからないが、ザクロは変身ヒーローや魔法少女のように一瞬にして着替えることができるらしい。繭から出てきたときも服を着ていたくらいだし。
 燕尾服だったりスーツだったり、それらの色が変わっていたり、一応毎日違う服を身にまとっている。
 たぶん「全部脱いで」と言えば、一瞬にして全裸になれるのだろう。言ってみるつもりはないけど。
 駅前のポストに年賀状を投函して、母の好きなカニの足をお土産に買って、私は電車に乗り込んだ。
 実家の最寄り駅へは、各駅停車の鈍行列車に揺られて小一時間ほどで到着する。駅に着く頃にはすっかり日が落ちて、あたりは暗くなっていた。
 空からはとうとう雪がチラチラと舞い始めている。明日の朝は雪景色になっているかもしれない。
 実家は駅から徒歩で十分くらいのところにある。私はコートのフードを頭にかぶせて、駅を出た。
 駅前の小さな商店街を抜けると、まわりは住宅街になる。田舎の住宅街は街灯もまばらで、足元も見えにくい。暗くなって出歩いている人もいないので、私は気兼ねなく後ろからついてくるザクロに話しかけた。
「久しぶりの故郷はどう?」
「ずいぶんと様変わりしています。こんなにたくさんの家はありませんでした。道も広くてきれいになっています」
「ザクロが知ってるここはどうだったの?」
「田んぼと畑が広がっていて、所々に家がありました。あの山はもっと大きく見えました」
 ザクロが指さす住宅街の向こうには、清司の神社が管理している山がある。このあたりは比較的最近に開発された町なので、背の高いマンションがいくつか建っていて、山はその向こうに頭が見えるだけだった。
 私の家は昔からの地区にある。住宅街のはずれから、山裾に広がる林の脇にある獣道を少し奥に入ったところだ。
 獣道に入ると家はすぐそこに見えているとはいえ、街灯はない。いつもなら早足で駆け抜けるところだが、今日は途中で立ち止まってザクロを振り返った。
「ほら。ここでザクロの繭を見つけたの」
 私は傍らの藪を指さす。繭を見つけたときにはまだ葉が茂っていた灌木(かんぼく)も、今は葉のない細い枝が絡まるようにしてのびているだけだ。
 ザクロは懐かしそうに目を細める。
「私が繭になったときには、ここは林の奥だったんですけどね」
「え? 林の奥だと人に見つけてもらえないんじゃないの?」
「大丈夫です。このあたりは昔、天蚕(てんさん)の糸を取っていたので、人は繭を探しに山の中に入ってくるんですよ」
 なるほど。天蚕を取る人がいなくなったから、ザクロは二百年も眠ることになったのか。
 ということは、私が死んだ後もザクロはまた、長く眠ることになるのかな。なんだかかわいそうな気がする。
 少ししんみりしてしまった私をザクロが促した。
「頼子、もう行きましょう。風邪を引いてしまいます」
「あ、うん」
 私は家の灯りに向かって再び歩き始めた。



 玄関を入るとザクロは気配と共に姿を消した。その方がうっかり話しかけたりしなくて済むからだ。両親から見れば、中空に向かって独り言をつぶやいている娘は、おかしくなったかと心配の種になりかねない。
 お土産のカニを渡して食事と風呂を済ませた後、しばらくは居間で両親と話をしたりテレビを見たりした。そして十時には両親は寝室に引っ込んだ。田舎の朝は早いが、その分夜も早い。
 私も自分の部屋に入って、すでに敷かれていた布団に潜り込んだ。とはいえ、いつもならまだ起きている時間なので眠くない。これはいつものことなので想定していた。
 私は布団の中で腹這いになって、荷物の中から小説を取り出す。そしてたぶんいるだろうと、中空に向かって声をかけた。
「ザクロ、いる?」
「はい」
 返事をしてザクロが姿を現した。布団の横に跪いて頭を下げる。
「私は少し本を読んで寝るから、山を見たかったら行ってきていいよ。明日一緒に散歩しよう。案内して」
「かしこまりました」
 にっこり笑って頷くと、ザクロは再び姿を消した。
 もっといい季節に案内してもらえばよかったのだが仕方ない。冬なので山は枯れ木ばかりで寂しい気もする。けれどザクロに、二百年ぶりの故郷の山を見せてあげたかった。明日、雪がどっさり積もってさえいなければ、一緒に散歩に出かけよう。
 ちょっとわくわくしながら、私は小説の表紙をめくった。



 翌朝、いつもより二時間も早く、私は母からたたき起こされた。別に何か用事があるわけでもなく、いつものことだ。休みの日なんだから、もう少しゆっくり眠らせてくれてもいいのにと思うが、みんなが早起きして朝ご飯を食べないと母が落ち着かないらしい。
 朝食の時、出かけることを告げると、母からおばさんが正月用のお餅を持ってくるという話を聞いた。このおばさんは顔を見る度に見合い話を勧めようとするので、なるべく会いたくない。どうせ年始挨拶で顔を合わせるのだから、今日はさっさと家を出た。
 昨日の雪は数センチほど積もったらしいが、日が出たと同時に溶け始めたようで、庭も母の歩いた跡はすでにぬかるみになっている。
 獣道にさしかかったとき、目の前にザクロが現れた。今日は初めからコートを着ている。
「おはようございます」
「おはよう。山の様子はどうだった?」
「山はほとんど変わっていませんでした」
 山の様子が変わってないのは、開発の手が入っていないからだろう。あの山は清司の家の神社が御神体として祀っている。人の立ち入りを禁止している場所もあるのだ。
 私は昨日ザクロに示した藪の脇から、山に向かって細道を歩き始めた。そんなに大きな山ではないし、子供の頃から紅い繭を捜してうろうろしていたので、実は案内など必要ないくらいだったりする。
 けれどザクロの方が棲んでいた年数が違うので、私の知らない穴場とか知っているかもしれない。
 山の穴場ってなんだ。
 頭の中でひとりツッコミしながらザクロに苦笑を向ける。
「じゃあ、案内してね」
「かしこまりました」
 頭を下げたザクロはそのまま私を抱き上げた。
 なんでいきなりお姫様だっこ!?
「ちょっ……! 自分で歩けるから!」
「いえ、少し飛びますので」
 なんですと!? ザクロって飛べるの!?
 すっかり動揺してしまったが、よくよく考えるとザクロって元はヤママユガだったっけ。そりゃあ、飛ぶわ。
 ていうか、そもそも妖怪なんだから、飛んでも不思議じゃなかった。
「私が空に浮いてたら騒ぎになるんじゃない?」
「大丈夫です。私に触れていれば見えませんから」
 あ、そういえばそうだった。ザクロの持つ荷物は見えなくなるんだった。――て、私は荷物か。
「えーと。飛ぶってどのくらいの高さ?」
「林の上を行きますので、あの木の上くらいですかね」
 ザクロが目で示した木を見上げる。てっぺんが見えないんですけど?
「あの……だっこじゃなくて、おんぶじゃダメ?」
 だってこんなきれいな顔が目の前にあったら、怖くてもしがみつきにくいっていうか……。
 ザクロはクスリと笑って私を下ろし、背中を向けてしゃがんだ。
「どうぞ」
「じゃ、失礼しまーす」
 照れ隠しに声をかけてザクロの背中に体を預け、肩の上から胸の前に腕を回す。ザクロは私の足を抱えてゆっくりと立ち上がった。
 ちょっとドキドキする。
「あの、重くない?」
「飛べないほど重くはないですよ」
 なんか微妙。でも確かに体重は増えてないんだよね。毎日ザクロの作るおいしいごはんを心行くまで堪能しているから、さぞかし太ったんじゃないかとビクビクしながらゆうべ体重計に乗ったけど。
 もしかして私が食べ過ぎた分は、ザクロが吸収してるのかな? 太りすぎは健康を害するっていうし。
「しっかり掴まってください」
 言われたとおりに私は組んだ腕に少し力を入れる。それと同時に、ザクロは軽く地面を蹴ってフワリと浮き上がった。
 葉を落とした木の枝を器用によけながら、時々太い枝を足場に、徐々にスピードを上げて空が近づいてくる。怖いので下は見ない。
 突然、まわりから木の枝が消えて、視界が開けた。どうやら林の上に出たようだ。恐る恐る下を見ると、林の向こうに実家の屋根が見えた。
 かなり高いところにいるよね。観覧車やロープウェイとか乗り物に乗ってると平気なんだけど、身ひとつで宙に浮いてるのはやっぱり怖い。
 私はザクロの背中に一層しがみつきながら尋ねた。
「どこまで行くの?」
「山の頂上です。もうすぐ着きますので」
 山に生えた木の上をすべるように、ザクロは風を切って飛んでいく。頬に当たる風が冷たくて、私はザクロの背中に顔を伏せた。
 少しして耳元で聞こえる風の音が止み、ザクロがストンと降り立った。私は顔を上げて辺りを見回す。三百六十度視界が開けている。
 そこは山頂にある通称三丈岩と言われる大きな岩の上だった。三丈岩は上部が平らになっている丸い岩だ。その直径が三丈(約十メートル)ほどあるのでそう呼ばれている。
「着きました」
 そう言ってザクロは私を背中から下ろした。私はあたりをぐるりと見回す。
 この山は大きな川沿いに拓けた平野の真ん中に、ポツンとある小さな山だ。私の実家と反対側の裾野には、神社と清司の家がある。そして山の向こう側には田んぼや畑が広がり、そこを斜めに切り裂いて大きな川が流れていた。広がる畑のはるか向こうに山脈が連なっているのが見える。
 振り返れば、昨日降り立った駅のホームと線路が見えた。
 この山の頂上に登った人は、神社の関係者しかいないのではないだろうか。なにしろ山頂への道は、立ち入り禁止区域の向こうにある。山の穴場には違いない。ちょっと気になるので尋ねてみた。
「ここって入っちゃいけないところじゃない?」
「人の決まり事としては、いけないんでしょうね。でも本当に立ち入ってはならない場所はごく一部です」
 やっぱり神社が管理してるくらいだから、立ち入ったら祟りがあるとかそういうたぐいなのだろう。今度、清司に会ったら聞いてみよう。
「少しここでお待ちいただけますか? すぐに戻りますので」
 ザクロはそう言って岩の上から飛び降りた。岩の上は結構広いけど、あまりに視界がよすぎて、立っていると足がすくんできた。私はゆっくりとその場に腰を下ろす。
 まわりに何もないので、風の直撃を受けて顔が冷たい。私がフードの中に頭を隠したとき、ザクロが戻ってきた。手にはひとつだけ実の付いた柿の枝を持っている。それを私の前に差し出した。
「まだ実が残っている木がありましたので、ひとつ採ってきました」
「わぁ、これ食べるの久しぶり」
 このあたりの山に生えている柿は渋柿ばかりだ。秋にはたくさん実を付けるので、母が採ってきて干し柿にする。普通は渋を抜かないと食べられないが、渋柿も完熟すると実がとろとろになり甘くなるのだ。
 完熟する前に母に採られて、あまり食べる機会がないので、完熟渋柿は私にとって希少価値がある。
 すぐに食べてみたいけど、これって実が柔らかすぎて絶対に手がベタベタになるんだよね。結局は水がないので、柿は持って帰って食べることにした。
 私は改めて周りを見回す。そして隣に座ったザクロに尋ねた。
「見晴らしがいいね。ここってザクロのお気に入りの場所なの?」
「はい。日の出や日の入りがよく見えます」
 これだけ見晴らしがいいと、確かにそうだろう。そう考えてふと閃いた。
「ねぇ、初日の出を見に来ない?」
「私はかまいませんが、ご両親が心配なさるんじゃないでしょうか」
「大丈夫よ。こっそり来てこっそり帰れば」
 我が家では初詣は日中に行くことになっている。大晦日には早寝早起きの両親も遅くまで起きているので、日の出の時間にはまだ眠っているのだ。
「かしこまりました。そろそろ帰りましょう。もう少し暖かい季節ならよかったのですが、ここは風が冷たいので頼子が風邪を引いてしまいます」
 相変わらず心配性の執事は、私に背中を向けてしゃがんだ。私は来たときと同じように彼の背中におぶさる。ザクロは私を背負って、岩から飛び立った。



「頼子、そろそろお目覚めください」
 元日の早朝、まだ暗い部屋でザクロの声が密かに囁く。私はごそごそと布団から這いだした。
 どうやら日の出は見られるらしい。雨や雪が降ったり雲が多すぎたりしたら見られないので、眠らないザクロがあらかじめ確認してくれたのだ。
「寒いのでしっかり着込んでくださいね。私は外でお待ちしています」
 そう言ってザクロは姿を消した。私は夜のうちに用意しておいた服を着込み、靴を持ってそっと窓を開ける。窓の外にはザクロが立っていた。
 部屋の中は真っ暗だったが、すでに空が白み始めているのがわかる。
 ザクロの手を借りて窓からこっそり外に出る。私が靴を履いたのを見届けて、ザクロは背中を向けてしゃがんだ。
 私を背負ったザクロは一気に空高く舞い上がる。そして林の上を滑るように、山頂へ向かって進んだ。
 はるか彼方に見える青黒かった稜線が、次第に紅を帯びてくる。空も藍から紫、紅に染まっていく。
 私たちが山頂にたどり着いたときには、遠くの山並みと山の上にかかる薄い雲が、目映いオレンジ色に変わっていた。
 やがて稜線の向こうに姿を現した大きくて眩しいオレンジ色の太陽は、雲を貫くように光を放ち、麓の町も畑もオレンジ色に染めていく。
 あまりの眩しさに目を逸らすと、隣にいるザクロの顔もオレンジ色に染まっていた。
「きれいだね」
「はい」
 ザクロも眩しそうに目を細めながら、こちらを向いて微笑む。
「私、年を取ったら、またここに住もうかな」
「私もご一緒していいですか?」
「当たり前じゃない」
 ここで私が人生の終わりを迎えたら、ザクロはまた山に帰れる。また長い間眠ることになっても、住み慣れた故郷の方がいいよね。
 その頃にもう一度、この景色が見られたらいいな。




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