白い金の輪

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2.



 結婚して少しした頃、夫は突然木こりを辞めた。子供が出来れば金が必要になるから、もっと実入りのいい仕事に就きたいと言う。
 私たちは仕事を求めて、遠くの町へ引っ越した。以来、伯母とは疎遠になった。
 新しい町の造船所で、夫は古い船のサビ落としや船倉の掃除などをする、肉体労働の仕事に就いた。
 木こりより実入りはいいが、決して高給ではない。私も同じ造船所で働いた。
 けれど程なく私は妊娠し、肉体労働が出来なくなって仕事を辞めた。
 最初の子は女の子だった。翌年また、女の子を産んだ。
 結婚後も夫は、相変わらず無口で無愛想で、淡々と結婚生活を送っていた。けれど意外に子煩悩で、二人の子供を可愛がってくれた。
 三人目を身ごもった時、私は産むのをためらった。
 小さい子供を二人も抱えて、私はずっと働けずにいる。夫の安月給だけで、三人の子供を育てられるわけがない。
 産んでくれと手放しで喜ぶ夫に、私は冷たく言い放った。
「子供を育てるにはお金がかかるの。産んで欲しかったら、女房を働かせなくてもいいくらい稼いできて」
 私の心ない言葉に、夫は怒るでも反論するでもなく、黙って中絶を承諾した。
 堕胎した子は、夫の欲しがっていた男の子だった。
 その時を境に、私たちは肌を合わせる事がなくなった。夫はとうとう私に愛想を尽かしたのかもしれない。
 最初から愛などなかった。けれど一緒に暮らし、肌を合わせているうちに、情も湧いてくる。
 近所に友人知人が増えるにつれ、他人の話を聞くうちに、私は随分いい人と結婚したのだと悟った。
 私は夫を拒みはしなかったが、受け入れてもいなかった。素っ気なく冷たい私に、真面目な夫は、浮気もせず、手を挙げる事もなく、無愛想ながらも優しく接してくれる。
 愛想を尽かされて、初めて気付いた。そんな優しい夫を、私は愛し始めていたのだ。
 愛されていない事、愛想を尽かされた事が、こんなに悲しいと思えるほどに。
 私に触れる事がなくなってからも、夫の態度は変わる事がなかった。
 根が優しい人なのだろう。子供がいるから、別れようと言えないだけなのだ。
 私の言葉を気にしたのか、夫は免許を取り、重機の運転手となって収入も増えた。
 子供の手が離れると、私も再び働きに出て、二人の娘達をなんとか大学に行かせる事が出来た。
 やがて娘達は就職し、少ししてそれぞれ嫁いでいくと、また二人きりの生活が戻って来た。
 互いの間に会話はほとんどない。時々娘達が連れてくる孫と会うのが、唯一の楽しみだった。
 夫が定年を迎え、二人でいる時間が増えても、会話が増える事はない。
 無口で無愛想な夫は友達も少ない。時々近所の老人会に誘われてカラオケに行く以外は、ほとんど家にいて、本を読むかテレビを見て過ごした。
 定年を過ぎた夫なんて、どこも似たようなものよ、と近所の奥さん達は言う。仕事しかしていなかったような人は、特にそうだと。
 夫は私と結婚して、まさに仕事しかしていなかった。
 夫にどんな趣味があるのか、どんな事に興味を持っているのか、私は全く知らない。知ろうともしていなかった。
 寄る年波には勝てず、私も夫も年々体力が衰えていく。このまま家に引きこもる生活を続けていると、益々衰えてしまうだろう。
 近所に出来た家庭菜園の土地を借りて、野菜でも作ってはどうかと、私は夫に勧めた。夫はあっさり了承し、野菜作りを始めた。
 働いていた時のように、毎日お茶と弁当を持って出かけては、夕方に帰ってくる。何事にも真面目な夫は、私に与えられた新しい仕事だとでも思っているのかもしれない。
 気になって様子を見に行ってみると、夫は真剣な表情で野菜の世話をしていた。けれどこころなしか楽しそうにも見える。土いじりは好きだったのかもしれない。
 私は気付かれないように、そっと畑を後にした。
 しばらくして夫が病に倒れた。手術で一命は取り止めたものの、その後も入退院を繰り返した。
 そしてとうとう退院できなくなった。
 年齢的にも、もう一度手術をするのは難しいだろうと医師は言う。
 元々細かった夫は、益々痩せて細くなった。最近は薬の影響なのか、日中でもうつらうつらしている事が多い。
 頭はしっかりしているようで、娘や孫が見舞いに来た時だけ嬉しそうにしていた。
 そろそろ危ないかもしれないと言われ、私は出来るだけ夫の側にいるようにしていた。
 てっきり眠っているものだと思っていた。いきなり手を握られ、思ってもみない事を言われ、私は夫を見つめ返した。
 夫は笑みを湛えたまま、しみじみと言う。
「お母さんには苦労をかけたなぁ」
「……とっくに愛想を尽かされてると思ってたわ。お父さんこそ、私と一緒にいて辛かったでしょう?」
「何言ってる。おまえの伯母さんに散々頼み込んで、やっと会わせてもらったんだ」
「え?」
 そんな話は初めて聞いた。唖然とする私に、夫は今頃になって当時の経緯を話してくれた。
 当時の私は、毎朝洗濯物を干しに庭先に出ていた。それを仕事で山に向かう夫が、通りすがりに毎日目にしていたのだ。夫は私に一目惚れしたのだと言う。
 会わせてくれるように伯母に頼んだら、最初は断られたらしい。男に裏切られて傷ついているから、そっとしておいて欲しいと。
 それでも諦めきれなかった夫は、一度でいいから話がしたいと何度も頼んだ。
 無口で口べたな夫にしては、相当頑張ったのではないだろうか。
 とうとう伯母も根負けして、私に話を通したのだ。
「嫁に来てくれると聞いた時は小躍りしたよ。辛いわけないだろう。一緒にいてくれるだけで幸せだった」
 夫は一層目を細め、照れくさそうに笑った。
「ごめんなさい。私、あなたは伯母さんに頼まれて、仕方なく私を嫁にもらったんだと思ってたの。だから愛されてるとは思ってなかった」
 重ねられた夫の手に、少し力が加わる。
「辛かったのはおまえの方だろう? 俺はずっと後悔していた。おまえが裏切った男に未練を残しているのは知っていたからな。俺はそいつからおまえを奪った事になる。おまえを嫁にもらってからも不安でしょうがなかった。そいつが迎えに来たら、おまえは行ってしまう。それが嫌で、逃げるように引っ越したんだ。俺のわがままに付き合わせてすまなかった」
「謝らないで。あの人とは終わってたの。私はお父さんが好きよ。私の方こそ優しくできなくてごめんなさい」
「お母さんは優しいよ。俺なんかに一生添い遂げてくれた。長い間、ありがとう」
 微笑んだ夫の目がゆっくりと閉じられ、握った手からスッと力が抜けた。
「お父さん?」
 異変に気付き声をかける。だが返事はない。
「お父さん!」
 今度は腕を揺すってみた。夫の反応はない。
「いやよ、お父さん!」
 私は狂ったように泣き叫びながら、ナースコールのボタンを何度も押した。
 なんて愚かな人生を送ってきたのだろう。私は夫の事も伯母の事も誤解していた。謝りたくても伯母は、もうこの世にはいない。
 せめて夫には償わせて欲しい。
(神様、後ほんの少しでいいから、この人を連れて行かないで!)
 私は祈った事もない神に縋った。



 数時間後、夫は意識を取り戻した。病室に戻された夫に面会に行くと、彼は弱々しく笑いながら言った。
「お母さんが泣くから、逝きそびれたよ」
「まだ逝かなくていいから、元気になって。今度は一緒に畑をしましょう」
「あぁ。それは楽しそうだな」
 夫は嬉しそうに目を細め、それからふと思い出したように尋ねた。
「今日は何日だ?」
 私が日付を答えると、夫は少し残念そうに小さく息をついた。
「そうか。結婚記念日は過ぎてしまったんだな。今年は五十年目だったんだが」
 言われて初めて気が付いた。私はすっかり忘れていたのに、夫は律儀に覚えていたのだ。
 あの頃は貧しくて結婚式も挙げられなかった。記念写真を一枚撮っただけだ。
 銀婚式にも何も出来なかったので、金婚式には何か贈り物をしようと夫は考えていたらしい。
 夫は枕元に置かれたティッシュペーパーを一枚取り、細く裂いてこよりをより始めた。
 そして私の手を取り、
「薬指でよかったよな」
 そう言いながら、指にこよりを結んだ。
「こんな物ですまないな。五十年間ありがとう」
 申し訳なさそうに苦笑する夫に、私は深々と頭を下げる。
「いいえ。これからも、よろしくお願いします」
 紙で出来た白い指輪は、どんな高価な宝石よりも、ずっと尊い物に思えた。



(完)



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