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3.獣の社会




 獣は女を食べるために襲っているのだと思っていた。女の方が脂肪が多くて柔らかいので、だから好んで女を襲うのだろうと。
「獣は女を食べるだけじゃないんですか?!」
「ん? まぁ大体事後に食われちまうけどな」
 獣は人間の女と交わる事で能力が増すという。女の体液や分泌液を舐めるだけでも力を得られるらしい。だがそれは一過性のもので、交わって得られる力に比べれば微々たるものだ。
 それを聞いてクルミは身震いした。五年前寝室に入り込んだ黒い獣は、執拗なほど顔を舐めた。あの時のクルミは恐怖と緊張で涙や汗を流していた。獣はそれを舐めていたのだろう。
 それにより力を得た獣は、たちどころに傷が回復していた。あのまま誰もやって来なければ、獣に陵辱されたあげく食べられていたのかもしれない。
 クルミのこわばった表情から察したのか、ジンは薄笑いを浮かべた。
「あんたは運がよかったんだ。もっとも極上の女は食われない。めったにいないからな。よほど頭の悪い奴でなければ、一回で終わりにしてしまうのはもったいないだろう?」
 人間の女は思春期を過ぎて女の機能が整うと、獣にしか分からない甘い香りを発するようになるらしい。
 その香りには個体差があり、極上の女は獣を酔わせるほどの強い香りを発しているという。
 獣よけの香水には、この香りを打ち消す効果がある。だが極上の女の香りは、香水を持ってしても打ち消す事ができないほど強いのだ。
 獣の血を引くジンが生まれているという事は、ジンの母親は極上の女だったのだろう。
 クルミは自分の手首を鼻にかざして匂いを嗅いでみた。別に何も匂わない。
 首を傾げるクルミを見て、ジンがクスクス笑った。
「人間には分からない香りだ。だがオレには分かる。あんたは間違いなく極上の女だ」
「え……」
 背筋を冷たいものが走る。それが本当なら、獣よけの香水などクルミにとっては意味のない物になってしまう。
 だがそれで納得できた。めったに姿を現さないはずの獣に、クルミだけは何度も遭遇していた理由を。
「獣にしか分からない香りって消える事はないんですか?」
「女としての機能がなくなれば、香りも弱まってくる。年寄りや子どもが襲われた事はないだろう?」
 確かにそんな話は聞いた事がない。という事は、獣から身を守ろうと思うなら、クルミはこの先何十年も家に閉じこもる生活を送る事になるのだろうか。
 想像すると目の前が真っ暗になった。
「随分、獣について詳しいんですね」
 職業柄というには、あまり知られていない生態について詳しすぎる。
 この疑問をジンはあっさりと解決した。
「オレは獣の森育ちだからな。まわりは獣だらけだ。詳しくもなる」
 クルミはゴクリと生唾を飲み込んだ。
 知りたい。
 更なる欲求に突き動かされ、クルミは窓から身を乗り出してジンの両肩を掴んだ。
「教えてください。獣の森と獣社会の事」
「そんなもの、本でも読めばいいだろう」
 ジンは面倒くさそうにクルミの手を払いのけた。
「本にはあまり詳しく書かれていません。実際に獣社会を知っているあなたから教えて欲しいんです」
「知ってどうする」
「身を守るのに役立つかもしれません」
「非力で他人任せのあんたに役立つとは思えない」
 図星すぎてクルミは一瞬言葉を飲み込む。それでも――。
「知らない事を知りたいと思うのは当然ではないですか?」
「変わったお嬢様だな」
 呆れたようにため息を漏らして、ジンはフッと笑った。今まで見た事もないような優しい表情に、クルミは少しとまどう。
「オレもずっと森で暮らしていたのは子どもの頃だけだ。最近は町にいる事が多い」
 教えてくれる気になったのか、ジンが語り始めた。クルミはおずおずと尋ねる。
「森ではお母様と一緒に?」
「母親は物心ついた頃にはいなかった。みんなそうだ。獣に家族や同族に対する情はない。あるのは唯一無二の掟、弱肉強食。一番強い奴が頂点に立つ。そいつが獣王だ」
 獣王は血筋や名声による世襲はない。もちろんただ強いというだけで周りからの信頼がなければすぐに蹴落とされる。反感を買えばその数だけ自分に跳ね返ってくるからだ。
 常に周り中から監視されているようなもので、弱みを見せれば取って代わろうとするものにつけ込まれる。カリスマも必要となる。
 だが一旦王と認められた者には、皆絶対服従。逆らった者は生きていられない。
「女の獣もいるんですか?」
「いなければ繁殖できないだろう」
「じゃあ、女が獣王になる事もあるんですね」
「理屈ではありえるが、実際にはありえない。女は男より力が弱い。獣王を倒した者が次の獣王になるんだ。一番強い奴を倒せる女はまずいないだろう」
 獣王は自らが王座を退くか、獣王戦によってのみ交代する。王が退いた場合は複数の立候補者で順番に戦う事になるが、そうでない場合、王になりたい者は獣王に一騎打ちを申し出て勝たなければならない。
 闇討ちや武器の使用は禁止されているので、力のみが物を言う。女には勝ち目がない。
「獣社会って女は肩身が狭いんですね」
「そうでもないさ。女には伴侶を選ぶ権利がある。男にはないんだ。そして選んだ伴侶が死なない限り、一生養ってもらえる。男は力によって実入りが違うから強い男に女は群がる。女に選ばれなかった男は寂しいぞ。そんなところは動物と同じだな」
 生態や社会制度は動物とよく似ている獣だが、人型になれる者は案外文化的な生活をしているらしい。
 森の中に家を建て、人間と変わらない生活をしている。獣王に至っては大きな城に住んでいて、たくさんの女たちや召使いを従えている。
 人型になれる者はそこで働いたり、人間の町に出て働いたりする。そして労働により得られた対価で食料などを手に入れる。
 動物のように森で狩りをするより豊かな生活ができる。そのため能力の差が生活の差になるのだ。
「獣が町で普通に働いているんですか?!」
「人型になれる者は知能も高い。言われなければ分からないだろう」
 めったに姿を現さないと思っていた獣が、実はあちこちに人知れず紛れ込んでいた事に驚いた。
 だが、人の中に紛れ込んでいる獣が女を襲わないのはなぜだろう。香水で匂いが消えていたとしても、知能が高いのなら見ただけで女かどうかわかるはずだ。
「獣王が禁じているからだ。勝手に力を増幅されては自分の身が危うくなる」
 獣たちは互いに監視し合っている。掟を破った者は必ず発覚し粛清される。それが分かっているから、人型になれるほどの知能を有する者は決して掟を破らない。
 それでも低級の獣は、なんとか力を得ようと時々森から現れて女を襲う。そして人間に見つかって殺されてしまうか、運良く森に戻れても粛清される。
 その後しばらくは哀れな末路が獣たちの記憶に残るので、勝手な行動をする者もいなくなる。それでめったに姿を見せないのだ。
 五年前にクルミを襲った獣たちも、あの後この世から抹殺されてしまったのだろう。そう思うと少し寂しく感じた。あのきれいな黒い獣には、もう二度と会えないのだ。
 黙り込んだクルミを、ジンが促した。
「他に聞きたい事は?」
「あ、今はもう」
 獣の社会は本に書かれていた事と随分違っていた。特殊能力を持った、動物より少し賢いだけの生き物ではなかった。
 あまりに色々と衝撃を受けて、ジンに守ってもらった礼を言っていなかった事にふと気付いた。
「ジン、守ってくれてありがとうございました。それと色々教えてくれた事も」
「それだけか?」
「え?」
 他に何か忘れていただろうか。クルミが首を傾げると、ジンはニヤリと笑った。
「助けられた姫君が騎士(ナイト)に送る謝礼といえば、キスと相場は決まっている」
 言うが早いか、ジンはクルミの後頭部に手を添えて引き寄せ、強引に唇を重ねた。
 容易く唇を割って侵入した舌が、生き物のように口腔内を這い回り、クルミの舌を絡め取って吸い上げる。
 ジンの舌はあの黒い獣のようにザラザラしていた。
 いきなりの濃厚な口づけに思考が麻痺していたクルミは、ハッと我に返ってジンを突き放した。
「な、何を……」
 悪びれた様子もなく、ジンはペロリと唇を舐めて恍惚と目を細めた。
「やはりあんたは極上の甘露だ」
 クルミは黙ったまま勢いよく窓を閉めてカーテンを引いた。怖くて身体が震える。
 糸が切れた操り人形のように、クルミはひざを折って窓辺に座り込んだ。
 クルミの事を嫌いなくせに、どうしてこんな事をするのだろう。考えるまでもなく答えは見えている。
 ジンの中に流れる獣の血が、力を得るために人間の女を欲しているからだ。
 分かっているのに胸の奥が熱く疼いている。それが何より怖かった。




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