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4.揺れる心




 鏡台の前に座ったクルミは、鏡に映る自分の姿をぼんやり見つめた。亜麻色の長い髪は細く猫毛でふわふわしてあまり艶がない。母のように艶のある濃いブロンドならよかったのにと時々思う。
 大きな緑の瞳と丸顔のせいで少し幼く見える。見た目は普通の娘だろう。
 けれどあの夜ジンは言った。間違いなく極上の女だと。
 獣を引きつける甘い香りは、一種のフェロモンなのだろう。けれどそれが人間に作用する事はちっともないのだ。その証拠にクルミは人間の男性を引きつけた事は一度もない。
 人見知りで引っ込み思案のため、存在に気付いてもらえない事すらあった。
 まだ学校に通っていた頃、クルミには憧れた先輩がいた。帰りに突然雨が降った時、途中まで傘に入れてくれた事がある。
 家まで送ってくれると先輩は言ったが、途中で迎えに来た馬車に出会ったのだ。
 二人で一つの傘に入り、他愛のない話をしながら歩くのはとても楽しかった。もっとも、クルミはドキドキして、ほとんどまともに話す事はできなかったけれど。
 学年が違うのでなかなか会う機会がなく、しばらくしてお礼を言ったら先輩はすっかり忘れていたらしい。思い出すのに少し時間がかかった。
「大したことじゃないからお礼なんていいよ」と先輩は笑っていたが、クルミだったから傘に入れてくれたわけではなかったのだと、ひどくガッカリしたのを覚えている。
 フェロモンで大勢を引きつけるよりも、自分が想うたったひとりの人に振り向いてもらえればそれでいいと思う。獣向けフェロモンのせいで外に出られないクルミには、それすら遠い夢となってしまった。
 あの夜からクルミは、寝室に入ってからもあまり落ち着けなくなった。ジンが窓の外にいると分かっているので、そんなに夜更かしもできない。
 二人きりになると豹変するジンは、嫌がらせで抱きしめたり、意地悪で泣かせたりするので、なるべく関わり合いたくなかった。
 なにげなく鏡の中の胸元に視線を落とす。
 数日前、勝手に部屋に入ってきたジンが嫌がらせでクルミを抱きしめながら「胸が大きい」と言った事を思い出した。
 それを意識した事はない。だから他人と比べた事もない。本当なのだろうかとちょっと気になる。
 うしろで髪を梳かしている侍女を鏡越しにこっそり盗み見た。
 侍女のモモカはクルミと同い年だ。いつも身支度を手伝ってくれたり噂話を聞かせてくれたりする。
 だが自分の影になってよく見えない。うっかり身を乗り出して、後ろから髪を引っ張られてしまった。
「あ、クルミ様」
 モモカが慌てて手を離したため、まとめようとしていた髪がバラバラと肩に落ちた。
「ごめんなさい」
 謝りながら振り向いたクルミは、ちゃっかりモモカの胸を見る。確かにモモカよりは大きいかもしれない。
「どうかなさいましたか?」
 キョトンと首を傾げるモモカに苦笑を向けて、クルミは苦し紛れの言い訳をした。
「なんでもないの。ちょっと鏡が汚れているように見えたから」
「じゃあ、後でしっかり磨いておきますね」
 にっこり笑うモモカに少し申し訳なく思いながらも、うまくごまかせた事にホッとした。
 クルミが鏡に向き直ると、モモカは改めて髪を梳かし、サイドの髪を後ろにまとめて髪飾りをつけてくれた。
 モモカがエプロンのポケットからクロスを取り出し、鏡を磨き始める。それを見ながら、クルミは数日前の事を思い出していた。
 クルミを抱きしめて胸が大きいと言ったジンは、なんだか嬉しそうだった。
(ジンは胸の大きい女が好きなのかしら)
 そんな事を考えてハタと我に返り、ブンブンと頭を振る。
 たとえ胸の大きさがジンの好みだったとしても、自分には関係ない。ジンにははっきり「嫌いだ」と言われた。彼の性格が歪んでいるのだとしても、嫌がらせをしたくなるほど嫌われているのだ。
 クルミの方もあんな意地悪な人は苦手だ。最初から気が合わないと思っていた。
 ジンの事を思い出すだけで気が落ち着かない。けれど嫌いだと言えないのはどうしてだろう。
 ふとあの夜のキスが頭をよぎった。あのキスのせい?
 クルミにとって、男の人と唇を重ねるキスは初めてだった。思い出すたびに胸の奥がギュッとなって鼓動が早くなる。
 けれどジンにとっては獣の血が極上の女の唾液を求めているだけなのだ。それで思い至った。ジンがクルミをいじめて泣かせるのは、クルミの涙を舐めるためだ。
 だからいつも泣いているクルミを抱きしめ、まぶたに口づける。そして舌先で涙をぬぐう。
 その優しい仕草に、少しは罪悪感を覚えているのかと思ったが、とんでもない勘違いだった。
 もう簡単には泣いてやらないと決意した時、いきなり肩を掴まれた。飛び上がりそうなほど驚いて顔を上げると、鏡の中からジンが不機嫌そうな顔で睨んでいた。
「何をぼんやりしている。外でポンタが困っていたぞ」
 クルミはキョロキョロとあたりを見回しながら立ち上がった。いつの間にかモモカはいなくなっている。
 モモカが出て行った事にも気付かずジンの事を考えていたのかと思うと恥ずかしい。その張本人に飛び上がるほど驚かされたのが悔しくて、クルミは少しムッとしたまま声を荒げた。
「勝手に入って来ないでください!」
「あんたがボサッとしてて気付かなかっただけだろう。ポンタが何度ノックして声をかけても返事がないって言うからオレが様子を見に来たんだ」
「ポンタ?」
 誰の事だろうと入り口に目を向けると、扉の隙間から使用人の少年コウが心配そうに顔を覗かせていた。
 コウはクルミより二つ年下で、五年前から住み込みで厨房や庭師の下働きをしている。母親が獣に襲われ身寄りがなくなったので、働かせて欲しいと屋敷にやって来たのを父が雇った。
 来た時はまだ子どもだったので、仕事の合間にはクルミと一緒に勉強をしたり、話し相手をしてくれたり、姉弟のように暮らしていた事もある。
 栗皮色のサラサラな髪と同じ色のクリッとした目が愛らしく、小柄なコウは成長した今でも可愛い弟のようだ。
 ポンタという狸を思わせる呼び名は見た目とは合っているが、アヅミ=コウという名前とは一文字も一致していない。
「どうしてポンタなんですか?」
「アンポンタンのポンタだ」
 確かにコウは少し抜けていて時々ドジを踏んでいるが、ジンにかかれば身もふたもない。
 クルミが目を伏せてそっとため息をついた時、コウがおずおずと話しかけた。
「あの、クルミ様。カイト様がお見えになっています」
「お兄様が?」
「だそうだ。支度が済んでいるならすぐ行くぞ」
 ジンはクルミの背を叩いて部屋の外へ促した。




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