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5.VS兄




 用件を伝えるとコウは仕事に戻った。クルミは斜め後ろにジンを従えてリビングへ向かう。
 ノックして入ると、兄のカイトは部屋の中央にあるソファに座り、お茶を飲みながら新聞を読んでいた。
 クルミに気付いた兄はパッと笑顔をほころばせて立ち上がる。そして大股で歩み寄り、クルミを思い切り抱きしめた。
 クルミの額にキスを落とし、心配そうに顔をのぞき込む。
「心配したよ、クルミ。また獣に出遭ったんだって?」
「えぇ。でも彼が守ってくれたの」
「彼?」
 クルミが振り返り視線でジンを指すと、兄はクルミから離れながら少し眉を寄せてジンを見つめた。
 ジンは初めて会った時と同じ穏やかな表情で兄に挨拶をする。兄はホッとしたように笑顔を浮かべ、ジンにねぎらいの言葉をかけた。
「クルミを守ってくれてありがとう。ここは僕がいるから、君は下がってもいいよ」
「いえ。女性のプライベートな時間と学習中以外は側を離れないように旦那様に仰せつかっておりますので」
 二人はクルミを挟んで視線をぶつけ合う。火花が散ったように見えたのは気のせいだろうか。
 少しして兄に笑顔が戻った。
「そう。君も大変だね」
「お気遣いなく。仕事ですから」
 涼しい顔でかわすジンを部屋の隅に残し、兄はクルミの手を引いてソファに戻った。
 兄はクルミより四つ年上で、父が創設した獣よけ香水の製造販売会社を経営している。
 十六歳の時から会社に入って、働きながら父から経営のノウハウを学んできた。
 今では父も経営の一線からは退き、実質兄が会社を取り仕切っている。忙しいらしく、会社の建物内に私室を設け、そこで寝泊まりしているのでほとんど家に帰らない。兄の顔を見るのは数ヶ月ぶりだった。
 兄の隣に腰掛けたクルミは、侍女が運んできたお茶を飲みながら尋ねた。
「今日はどんなご用で?」
「クルミの顔を見に来たんだよ。獣に襲われたと聞いたら心配でいても立ってもいられなかったんだ」
「私のためだけ?」
「当たり前じゃないか。僕のお嫁さんになる前に獣なんかに横取りされたらたまらないからね」
 兄は目を細め、愛おしげにクルミの頬を撫でた。
 兄とは血が繋がっていない。兄はクルミの遠縁に当たる。両親もクルミも金髪だが、兄だけ髪も目も茶色だ。
 クルミが五歳の時、母が病気で子どもの産めない身体になった。それで父が跡継ぎとして兄を養子に迎えた。兄もコウと同じように母親を獣に襲われたらしい。
 まだ互いに幼かった頃、忙しい父や病弱な母に代わり一緒に遊んでくれた兄をクルミは慕っていた。
「大きくなったらお兄様のお嫁さんになる」とその頃言った覚えがある。そんな子どもの戯れ言を兄が覚えていてくれた事が嬉しくて、クルミは微笑んだ。
「覚えててくれたの? あんな昔の事」
「忘れるわけがない。僕は本気だよ」
「え……?」
 兄の真剣な眼差しがクルミの落ち着きを奪う。無性に背後が気になった。
 部屋の隅でジンが聞いている。どんな表情で何を思って聞いているのか気になって胸がざわつく。
 ジンが聞いているのに、兄はどうしてこんな話をするのだろう。
 クルミの心中をよそに、兄は更に続ける。
「もうすぐ僕は社長に就任する。そしたら父さんに話そうと思うんだ。父さんも元々そのつもりで僕を養子にしたはずだから、きっと喜んでくれるよ」
 父の思惑など初めて聞いた。言われてみれば、思い当たる節は色々ある。
 兄は養子とはいえ、領地を治める侯爵家の跡取りだ。普通貴族の男子は二十五歳くらいまでには結婚する。血を守るため、子どもの頃から婚約者が決まっている事も多い。ところが兄には、婚約者はおろか縁談すらない。
 クルミが知らないだけで、兄を養子にした時点で父がそのつもりだったのなら頷ける。
 社交の場から遠ざかって久しいクルミは知らないが、父はすでに周知しているのかもしれない。そして兄もそれを知っているのだろう。
 突然降って湧いた結婚話にクルミは戸惑った。
 兄の事は好きだ。けれどそれは、あくまで兄として。
 今まで兄として接してきた人を、結婚したからといって夫として愛せるだろうか。
 貴族の娘が家同士の繋がりのために、政略結婚の駒として嫁がされる事はよくある。自分の意思にそぐわない結婚を強いられる事は、クルミも覚悟していた。
 まさかその相手が兄だとは――。
 思い起こせば、年頃のクルミにも縁談はない。兄の言っている事を裏付けているような気がする。
 黙り込んで俯くクルミを、兄は心配そうにのぞき込んだ。
「クルミ、どうした?」
「あ、なんでもないの。今日は朝から、なんだかぼんやりしちゃって」
 クルミは顔を上げ、無理矢理笑顔を作ってみせる。兄はまだ心配そうにクルミの頬を両手で包んで、顔をのぞき込んだ。
「顔色があまりよくないよ。敷地の外は無理でも、たまには気晴らしに庭を散歩したらいい」
 クルミが笑って頷こうとした時、後ろからジンが口を挟んだ。
「お言葉ですが、クルミ様は屋敷の外に出る事を旦那様より禁じられております」
「そんな事は君に言われなくても分かっている!」
 苛々したように怒鳴りながら、兄はジンを睨んで立ち上がった。クルミはおろおろとジンを振り返る。
 兄の剣幕にもジンはひるむ事なく、口元に薄い笑みを浮かべていた。
「分かっておいでなら、どうして庭に出る事をお勧めになるのか私には理解できません。敷地内に獣が侵入したのは二度目です。庭も安全とは言いかねます」
「屋敷に閉じ込められて、クルミがかわいそうだろう!」
「獣に襲われる以上にかわいそうな事はないと存じますが」
 兄は歯がみしながら拳を握りしめた。水を打ったような沈黙が部屋の中を支配する。一触即発の剣呑な雰囲気に、クルミは間に挟まれて二人を交互に見つめながら、ただうろたえるしかできない。
 そこへ扉がノックされる音が響いた。張り詰めた空気が一瞬にして緩み、皆一様に扉を見つめる。
 薄く開いた扉から、母が手招いた。
「ジン、ちょっと……」
「奥様、申し訳ありません。今……」
 ジンは珍しく困惑した表情で断ろうとしたが、母は少し強い口調でそれを遮った。
「いいから、来なさい」
 母は騒ぎを聞きつけて仲裁に来たのかもしれない。諦めたように口をつぐんだジンは、クルミに向き直り「失礼します」と頭を下げて部屋を出て行った。
 それを見届けて兄は、ため息と共にソファに座り直した。ソファの背に深くもたれて腕を組み、眉間にしわを寄せてこぼす。
「なんなんだ彼は。父さんが頼み込んで雇ったから優秀なのかもしれないが、主に対する差し出口が過ぎる」
 クルミは思わず苦笑に顔を引きつらせた。
 兄には申し訳ないが、おそらくジンは雇い主である父以外を主だと認めてはいないだろう。クルミに至っては警護対象であるにもかかわらず、平気でいじめている。
 兄の言う事はもっともだと思うが、獣が頻繁に目撃されている今、ジンがいなくなるのは困る。おまけに頼み込んでまで雇った父の面子もある。
 本意ではないが、クルミはジンの弁護に回った。
「彼はお父様の命令に忠実すぎるの」
「まぁ、そうかもしれないな」
 クルミを横目に見ながら、兄は渋々ながら同意する。そしてポツリと漏らした。
「約束の日が近いから、父さんも過敏になっているんだろう」
「約束の日?」
 クルミが首を傾げると、兄は焦ったように取り繕った。
「あ、あぁ。契約の日だよ。仕事の話だ」
 何か大きな取引でも進めているのだろうか。それにしては兄の様子が気にかかる。
 仕事の話ならクルミにしてもしょうがないし、デリケートな案件なら口外できないのも分かる。それでもなんとなく、胸の奥がもやもやした。




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