前へ 目次へ 次へ

6.戸惑いと憤り




 兄にやんわりとはぐらかされ、それ以上に問い質す事もできず、気まずい雰囲気のまま他愛のない世間話をする。
 少しして再び扉がノックされ、侍女に案内された見知らぬ男性がやって来た。
 グレーのスーツに身を包んだその人は、ジンと同じくらいスラリと背が高い。少しクセのある銀の髪を後ろに束ねて、整った顔立ちは気品が漂っていた。
 どこかの貴族だろうか。不躾なほど見とれていたのが気取られたのか、彼の濃いブルーの瞳が一瞬クルミを捉えた。クルミは慌てて目を逸らす。
 彼は兄に軽く頭を下げて告げた。
「カイト様。そろそろお戻りになりませんと、会議に間に合いません」
「もうそんな時間か」
 答えて兄は席を立った。クルミも一緒に立ち上がる。一緒に彼の側へ行くと、兄が紹介してくれた。
「彼は僕の秘書なんだ」
「初めまして。フドウ=ライと申します。カイト様ご自慢のクルミ様にお目にかかれて光栄です」
 ライは優雅に微笑んでクルミの手を取り口づけた。まるで貴公子のようだが、貴族ではないらしい。
「カイト様よりお噂はかねがねお伺いしておりましたが、想像以上にお美しい」
「え、そんな……」
 社交辞令だとしても、自分よりよほどきれいな人にそんな事を言われるとドキドキしてしまう。
 クルミが頬を上気させていると、兄が横からライの肩を叩いた。
「まったく、おまえは。クルミ、君は確かに可愛いけど、ライには用心した方がいいよ。彼が女性に甘い言葉を囁くのは挨拶みたいなものだから」
「心外ですね。私は本当に美しい女性にしか美しいとは申しません」
「はいはい」
 呆れたようにため息をつく兄を見て、クルミはクスリと笑う。二人は単なる仕事での相棒という以上に仲良しのようだ。
 あまりゆっくり雑談をしていると本当に会議に間に合わなくなるという事で、二人は慌ただしく玄関に向かう。クルミも見送りについて行った。
「時間が取れたら、また会いに来るよ」
 そう言って兄はクルミの頬に口づけた。
「またお会いできる日を楽しみにしています」
 笑顔で頭を下げたライが、ふとクルミの後ろに視線を向けた。そして笑顔のままクルミの後ろに声をかける。
「君にこんなところで会うとは奇遇だね」
 振り返ると、いつの間にかジンが立っていた。兄が訝しげに眉を寄せてライに尋ねる。
「知り合いか?」
「以前の職場で一緒だった事があります」
 表情を崩す事なく、ライは再びジンに声をかけた。
「頑張ってるみたいだね。ザキも頑張ってるらしいよ」
「そうか」
 ジンは無表情のまま短く返答する。知り合いというにはあまりにそっけないやり取りに、クルミは少し困惑する。
 兄は気まずそうに、ジンに言葉をかけた。
「クルミを頼むよ」
「かしこまりました」
 頭を下げるジンとクルミに見送られ、兄はライと共に屋敷を後にした。
 扉が閉まり頭を上げたジンは、いつものように豹変する。
「そろそろ家庭教師が来る。部屋に戻るぞ」
 ジンに急かされるようにしてクルミは部屋に戻った。
 家庭教師が来るまでの間はいつも、ジンと一緒に部屋にいる。時々意地悪をしたりするが、大概彼は部屋の隅に黙って立っている。
 守られているというよりは、監視されているようで気が休まらないのだ。
 部屋に入って扉を閉めた途端、ジンはクルミの両肩を掴んで壁に押しつけた。
「な、何?」
 不意を突かれて軽く混乱したクルミはジンを見上げた。いつにも増して冷たい瞳が、怒りを孕んでクルミを射すくめる。肩を掴む手に力が入った。
「あいつが言った事は本当なのか?」
 怒ったような強い口調に萎縮しながらも、わけが分からずクルミは首を傾げる。
「何の事ですか?」
「とぼけるな。答えろ!」
 ジンが右手を振り上げた。叩かれると思ったクルミは、咄嗟に目を閉じて首をすくめる。風圧が頬をかすめ、鋭い爪が胸元を通過し、ブラウスを引き裂いた。
「きゃあっ!」
 露わになった胸を隠すため身体を反転させようとしたが、再び肩を掴まれ押さえつけられた。
 胸の真ん中にうっすらと爪痕がついている。傷は熱を持って次第にズキズキと痛み始めた。
 クルミはジンを見上げ、泣きそうな表情で訴えた。
「本当に何の事か分かりません」
「あいつとあんたが結婚するという話だ」
 ジンの怒った顔が怖くて、クルミは俯きフルフルと首を振った。
「知りません。今日初めて聞きました」
「あんたがあいつを選んだんじゃないのか?」
「子どもの頃の話です。まさかお兄様が本気にしているなんて……」
 ジンが何を怒っているのか未だに分からない。これほど怒ったジンは初めて見た。
 意地悪をする時も、薄笑いを浮かべて楽しんでさえいるようなのに。
「あんたの極上の香りが人間の男の匂いで汚されるのは気に入らない」
 そう言ってジンは、クルミの額に口づけ舌を這わせた。続いて頬にも口づける。兄がキスをした場所だ。
 香りが汚れるから――。それで怒っているのだろうか。
 あまりに理不尽な気がして、クルミはジンの腕を掴み、顔を背けながら抵抗した。
「やめてください。人を呼びますよ」
 ジンが動きを止め、クルミのあごを下からすくうように掴んで上向かせた。至近距離で見つめる琥珀色の瞳に吸い込まれそうな気がする。
 スッと目が細められ、口元に冷酷な笑みが浮かんだ。この表情は知っている。庭に現れた獣を仕留めた時のものだ。
「呼んでみろ。こんな姿を人に見られてもかまわないなら」
 言われてハタと自分の姿に気付いた。ブラウスを引き裂かれ、下着の胸が露わになっている。
 こんな姿を人に見られるのも恥ずかしいが、それで妙な噂が立てば両親や兄にも迷惑がかかる。
 クルミは唇をかんでジンを睨んだ。勝利の笑みを浮かべたジンが、首を少し傾けて顔を近づけてくる。クルミがギュッと目を閉じた直後、唇が重なった。
 ザラつく舌が唇や歯列をなぞり、舌を絡め取る。ジンのシャツを掴み抵抗するがビクともしない。
 長いキスに息も絶え絶えになった頃、ジンの唇と舌はクルミの唇を離れてあごから首筋へと移動し始めた。
 首筋にかかる吐息と這い回る舌の感触に身体がピクリと震える。
「い、いや……」
 ようやく声を絞り出すと、ジンはおもしろそうに鼻で笑った。
 首筋を数回往復した唇は、更に下へと下りていく。それに合わせて肩を掴んでいた両手も下へと移動した。
 唇が胸の真ん中で止まる。そしてそこにある傷口をペロリと舐めた。同時に下着の上から胸の丸みを覆っていた両手がキュッと握られる。
「あっ……」
 今まで味わった事のない感覚と傷の痛みが背骨を突き抜け、クルミは思わず声を漏らした。
「じっとしてろ」
 一瞬顔を上げたジンは短く言い捨て、すぐに傷を舐め始めた。胸を掴んだ手も握ったり緩めたりを繰り返す。
 辱めを受けているのだと思うと、無力な自分がたまらなく悔しい。けれど未知の感覚に身体の中心が次第に熱くなっていく。
 もう簡単に泣いてやらないと決めたばかりなのに、目には涙が滲んできた。
 少しして感覚が麻痺してきたのか傷の痛みが消えてきた頃、ジンが顔を上げた。
 クルミをそっと抱きしめ、まぶたに口づける。クルミはジンを思い切り突き放し、睨み付けた。
 その時、扉がノックされ、モモカの声が聞こえた。
「クルミ様、家庭教師(せんせい)がお見えになりました」
「あ、ちょっと待って」
 慌てて返事をしながら裂けたブラウスの胸元をかき合わせる。そして気付いた。
 疼くほどの傷が跡形もなく消えている。
 ジンに視線を向けると、彼はニヤリと笑った。
「傷は治しておいた。オレの舌には治癒能力がある」
 礼なんか言わない。傷をつけたのはジンなのだから。
 クルミはムスッとして頬を膨らませた。




前へ 目次へ 次へ


Copyright (c) 2012 - CurrentYear yamaokaya All rights reserved.