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7.味方




 薄暗い食料置き場の隅で、積み上げられた小麦粉の袋にもたれ、クルミはひざを抱えていた。
 しばらくジンに会いたくない。
 家庭教師は随分前に帰った。いつもは教師を見送った後、モモカがジンを呼びに行くのだが、今日は自分が呼びに行くからとウソをついて止めたのだ。
 リビングや自室にいれば、呼びに行かなくてもいずれは見つかってしまう。かといって一人で庭に出るのは父に禁じられているし、なにより獣に出くわすのが怖い。
 クルミが部屋にいない事を知ったら、ジンは焦るだろうか。少しぐらい困ったらいい。それでモモカが叱られたら申し訳ないとは思う。思うが、あと少しだけ、ジンに会いたくない。
 理不尽な理由で勝手に怒って、彼はクルミを傷つけた。傷は治してくれたが、胸を触る必要はなかったと思う。
 思い出すたび、背中を突き抜けたあの感覚も蘇る。そしてそれが不快感とは違う事に戸惑っている。
 ドレスの着付けをモモカに手伝ってもらう時、何度か触られた事はあるが、あんな感覚はなかった。相手が男性だからだ。
 いつ嫁に行ってもおかしくない年頃のクルミは、愛し合う男女の営みについて一応学んでいる。きっと自分の中のメスが反応しているのだ。無意識に男を求めている、はしたない自分がたまらなくイヤになる。
 ジンは嫌いなクルミをいじめて泣かせるために嫌がらせをしているだけ。
 分かっているのに不快に思わなかったのが悔しい。うっかり泣いてしまってジンの思うつぼだったのも更に悔しい。
 それを思うと再び涙が滲んできて、クルミは抱えたひざの上に顔を伏せた。
「クルミ様?」
 突然声をかけられ、クルミは弾かれたように顔を上げた。目の前にはコウが不思議そうな顔をして立っている。厨房の下働きをしているコウは、何か食材を取りにでも来たのだろう。
 クルミは慌てて涙をぬぐう。クルミの前に片膝をついてしゃがんだコウは、心配そうに顔をのぞき込んだ。
「どうかしたんたですか?」
「なんでもないの」
 ジンに辱めを受けたなど、男の子に言えるわけがない。無理矢理笑顔を作ってごまかすと、コウは困ったように眉を寄せて苦笑した。
「無理に笑わないでください。言いたくないなら訊きませんけど、泣くような事があったんでしょう?」
 クルミは黙って俯く。少ししてコウが遠慮がちに尋ねた。
「もしかして、ジン様に何かきつい事でも言われたんですか?」
 何か言われる事など日常茶飯事だが、どうしてコウはその事を知っているのだろう。クルミ以外の前で、ジンは猫をかぶっているのに。
 ハッとして顔を上げたクルミに、コウはニッコリ笑いかけた。
「あ、当たりですか?」
「どうしてわかったの?」
「だってカイト様がクルミ様を泣かせるわけはないし、優秀で頑張り屋のクルミ様が勉強の事で泣くとは思えないし、だったらジン様かなって。オレって間抜けだから、時々手厳しい事言われたりするんですよね」
 そういえば、ジンはコウの事をポンタ呼ばわりしていた。朝、コウのいる前でも態度が横柄なままだった。クルミ同様コウの事も見下しているから、素のままなのだろう。
 ジンの意地悪な本性を知る仲間がいる事にホッとして、クルミは微笑んだ。コウも嬉しそうに笑う。
「やっぱりクルミ様は笑っている方がいいです。オレじゃ頼りにはならないでしょうが、昔からずっと、オレはクルミ様の味方だって事、覚えていてください」
「うん。ありがとう」
 少し気が晴れたので部屋に戻る事にした。クルミは立ち上がり、まだ用事のあるコウを残して出口に向かう。食品が並べられた棚の角を曲がった時、ギクリとして足を止めた。
 入り口を背に黒い影が仁王立ちしている。ジンが気付いて探しに来たのだ。
「こんなところで何をしている」
 不愉快そうに言いながら、ジンが大股でこちらにやって来る。思わず後ずさりしたのを見てコウが歩み寄ってきた。
「クルミ様? 何か……」
 ジンがピタリと歩を止める。そして側まで来たコウと一瞬見つめ合った。
 次の瞬間、クルミを捕まえようとしていたジンの手は、コウの胸ぐらを捕まえて壁に押さえつけていた。
「ポンタ、おまえが連れ出したのか」
 低い声で静かに問いかけながらも、ジンは腕に力を加えてコウをぐいぐいと押さえつける。
 小柄なコウはジンの圧倒的な力に為す術もなく、足先がかろうじて地に着いている状態だ。首を締め付けられて苦しそうに顔を歪めている。
 これでは言い訳をしたくても口がきけない。なによりコウが絞め殺されてしまいそうで、クルミはコウを掴んだジンの腕を抱えるようにしながら体重をかけて引きはがした。
「離してください!」
 そのまま二人の間に立ち、ジンを睨み上げる。
「私が勝手に隠れていたんです! コウはたまたま来合わせただけです」
 ジンは少し面くらったような表情で、クルミを見下ろした。
「あんた隠れてたのか? 何でそんな事……」
 こっちが面くらってしまう。クルミは両腕に抱えたままだったジンの腕を、投げ捨てるようにして離した。
「自分の胸に聞いてください!」
 少しの間クルミを不思議そうに見下ろしていたジンは、やがていつもの意地悪な笑みを浮かべて軽く背中を叩いた。
「かくれんぼは終わりだ。部屋に戻れ」
 クルミは振り返りコウをのぞき込む。
「ごめんね、コウ。大丈夫?」
 コウは壁にもたれたまま、胸元を押さえて弱々しく微笑んだ。
「平気です」
「ほら、さっさと戻れ。ポンタは仕事があるんだ。邪魔するな」
 苛々したように促すジンを従えて、クルミは後ろ髪引かれる思いで食料置き場を離れた。
 廊下に出て部屋に向かいながらも、胸がもやもやする。
(自分の勘違いでコウを傷つけておいて謝りもしないなんて!)
 ほとほと歪んだ人だと半ば呆れていると、後ろから冷酷に楽しそうな声が響いた。
「あんた、オレに刃向かうとはいい度胸だな」
 ゾクリと背筋に悪寒が走る。すっかり考えから抜け落ちていた。ジンが少しくらい困ったらいいと思っていたが、この人を困らせると同等かあるいはそれ以上の報復を覚悟しなければならないという事を。
 恐る恐る振り返ると、目が合ったジンはニヤリと笑った。
「楽しみだ」
 今すぐにまた隠れたくなった。




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