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8.二つの疑惑




 扉に手をかけて少しためらう。部屋に入って二人きりになったら、どんな報復が待っているのか。チラリと後ろを窺う。ジンはおもしろそうに口元に笑みを浮かべた。
「どうした。早く入れ」
 促されて仕方なく扉を開ける。一歩踏み出した時、部屋の中からモモカが笑顔で駆け寄ってきた。
「クルミ様、よくぞご無事で」
 どうやら行方不明になったと思って心配していたようだ。話を聞くと、クルミがいない事に気付いたジンが、いつも呼びに来るモモカに尋ねたらしい。
 事情を知ったジンは、クルミが戻ってくるかもしれないからと、モモカを部屋に待機させて探しに行った。
 モモカがジンに叱られたのではないかと気になったが、そんなことはなかったという。むしろ平謝りするモモカを気遣ったらしい。コウに対する態度とは雲泥の差だ。
 クルミほどではないのかもしれないが、女の子の甘い香りに酔わされたのではないかと勘ぐってしまう。
 だがモモカも獣よけの香水を常用している。女の香りは打ち消されているはずだ。
 それに気付いた途端、胸がざわついた。クルミの事は嫌いでも、モモカの事は好きなのだろうか。
 他の侍女たちに対して、ジンは猫かぶりの状態で機械的に接している。クルミにだまされたとはいえ、失敗をしたはずのモモカにだけ優しいなんて。
 改めて頭を下げたモモカを、ジンは微笑んで見送った。そんな優しい表情が初対面の時以来、クルミに向けられた事はない。
 自分が嫌われている事は承知しているが、なんとなくおもしろくない。
 扉を閉めてこちらを向いたジンは、いつもの冷たい表情に戻っていた。それが益々面白くない。
 不機嫌さが顔に出ていたらしく、ジンがニヤニヤしながら問いかけた。
「どうして、むくれているんだ?」
「別にむくれていません」
 うっかりつっけんどんになった物言いに絡まれるかと思ったが、ジンは「ふーん」と言いながら意味ありげな笑みを浮かべてクルミを見つめただけだった。



 程なく昼食の時間になった。モモカに対する態度が気になって、すっかり忘れ去っていたが、恐れていたジンの報復はなかった。
 食後はリビングに移動し、モモカに話し相手をしてもらいながら居座る。いつもはすぐ部屋に戻るのだが、なるべくジンと二人きりになりたくなかった。
 幸い今日は午後からも別の家庭教師がやってくる。それまでの間、時間稼ぎをしたかった。
 ジンは部屋の隅に立ち、黙ってこちらを見ている。見つめているのは自分だろうか。それともモモカ?
 ジンの視線が気になって、クルミはうわの空になっていた。
 やがて時間が来て、別の侍女が家庭教師の訪問を告げた。クルミはモモカと別れ、ジンと共に部屋に戻る。すぐにやって来た教師と入れ替わりに、ジンは部屋を出て行った。
 学習の時間が終わり、モモカと一緒に教師を見送った。すぐにモモカがジンを迎えに行く。今度は素直にまかせた。何度も彼女を心配させるのは申し訳ない。
 覚悟を決めてジンと一緒に部屋に戻る。どんな報復が待っているかと身構えていたら、意外にもジンは部屋の隅に黙ってたたずんだ。
 何もないならそれに超した事はないが、身構えていた分拍子抜けする。
 クルミはジンの様子を窺いながら、そろそろと壁際のソファに移動して腰掛けた。
 読みかけの本を手に取りページを開く。本に視線を落としたが、やはり気になってチラチラとジンを窺ってしまう。
 そんなクルミの様子を不審に思ったのか、何度目かに目が合った時、ジンが声をかけてきた。
「何か用か?」
 忘れているのなら、わざわざ蒸し返したくはない。クルミは慌てて目を逸らした。
「何でもありません」
「ふーん」
 気のない返事が聞こえ、クルミはホッとして本に目を落とす。少しして突然ソファの隣が深く沈み、反動でクルミの腰が少し浮き上がった。
 驚いて隣を見ると、いつの間に来たのかジンが座っている。背もたれに腕を乗せこちらを向いたジンは、意地悪な笑みを浮かべてクルミをのぞき込んだ。
 クルミは開いた本を両手で掲げ、ジンとの間に壁を作る。本の上から目だけ出して、ジンに尋ねた。
「何ですか?」
「あんた、さっきモモカにヤキモチを焼いていただろう」
「そんな事……!」
 口では否定しながら、ジンの言葉がストンと胸に収まった。彼がモモカに優しい表情を向けるのも、モモカを見つめているのも、なんとなくおもしろくなかったのは、ヤキモチを焼いていたからだ。つまりそれは、自分がジンを好きだから。
 嫌われているのだから好きになってもしょうがない。そう思って目を逸らしてきた自分の気持ちを、ジンは残酷にも目の前に突きつける。
「あんた、オレが好きなんだろう?」
 冷たい瞳で見つめられ、意地悪な事を言われても、本気で嫌だと拒めない。獣社会の話を聞かせてくれた時は嬉しかった。
 涙を舐めるためだとしても、まぶたに落とされる優しいキスは好き。
 四六時中見つめられるのが落ち着かないのも、強引に唇を奪われたり、触られて不快に思わなかったのも、全部ジンが好きだから。けれど――。
 クルミはひざの上に本を伏せて、ジンを真っ直ぐに見つめた。
「あなたは私が嫌いなんでしょう?」
「あぁ、嫌いだ」
 答は分かっていた。何を期待していたのだろう。クルミの気持ちを知れば、少しは優しくしてくれるとでも――?
 分かっていたけど酷い人だ。
 クルミの気持ちを確認した上で、期待を持たせて地にたたき落とす。それでも彼を嫌いだと言えない。
 悔しくて、辛くて、涙があふれ出す。
 ジンが顔を近づけてきた。クルミはそっと目を閉じる。拒む気もない。だってこの時だけは、ジンが優しいから。
 ジンの腕がふわりとクルミを包み込む。まぶたに唇が触れ、舌先が涙をぬぐう。
 ジンの身体から、覚えのある甘い香りが微かに漂った。




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