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10.獣たちのレース




 あれからジンはあまり意地悪な事を言わなくなった。それというのもクルミが警戒して、なるべく二人きりにならないようにしていたからだ。
 そのため泣かされるような事もない。だからあの、まぶたに落とされる優しいキスもあれ以来受けていない。
 そしてそれはジンにとっての自分は、いじめて楽しむ対象か、極上の女としての価値しかないのだという事を物語っている。
 意地悪されるのは嫌だけど、こんな風に全く無関心なのは少し寂しい。我ながら矛盾しているとクルミは思った。嫌いならかまわないでと自分で言っておきながら。
 いつもは自室で過ごしていた時間の大半を、今はリビングで過ごしている。ジンは黙ってクルミについて回り、今はリビングの隅に立ってこちらを見つめていた。
 ジンの視線を気にしつつも、クルミはソファに座り持ってきた本に視線を落とした。
 そのまま静かな時間が流れる。時々開かれた窓から、庭にやって来た小鳥のさえずりが聞こえてきた。
 どれほど時が経ったのか、クルミがすっかり本に夢中になった頃、突然リビングの扉が開いた。
 顔を上げると兄のカイトが、嬉しそうに早足でこちらに近づいてくるところだった。
「クルミ、会いたかったよ。元気にしてたかい?」
 そう言いながら隣に座った兄は、クルミを抱きしめ頬に口づけた。
 ジンが見ている。また香りが汚れるとか言って不機嫌になるのではないかと思うと、クルミの笑顔は自然と引きつる。
「おかえりなさい、お兄様」
「時間が取れたから会いに来たよ。ライがジンに用事があるっていうから、僕はついでに来たようなものだけどね」
 見ると兄の後ろに秘書のライが立っている。クルミと目が合うと、彼は軽く会釈した。
「お久しぶりです、クルミ様。少しの間、ジンをお借りしてもよろしいですか?」
「えぇ」
 クルミが笑顔で頷こうとした時、部屋の隅からジンが静かに、けれどキッパリとした口調で断った。
「いいえ。私は今仕事中です」
 ライはチラリとジンを振り返った後、困ったような笑顔でクルミに向かって肩をすくめて見せた。兄が立ち上がり二人の間に立つ。
「君が職務に忠実な事は父からも聞いている。クルミを守ってくれている事にも本当に感謝している。だがライは君にどうしても話したい事があるらしいんだ。君が席を外している間、この部屋から出ないしクルミの身は僕が責任を持って守る。もし万が一の事があっても君の責任を問う事はしない。ライの話を聞いてやってくれないか?」
 ジンは少しの間、硬い表情で兄を見つめた。また火花が散るのではないかとクルミはハラハラする。けれどそれは杞憂に終わった。
 ジンが表情を緩め兄に頭を下げた。
「かしこまりました、カイト様。クルミ様をよろしくお願いします」
 ライもクルミと兄に頭を下げて、ジンと一緒に部屋を出て行った。



 部屋を出たジンは苦々しげにライを睨んだ。その様子を見てライはおもしろそうに笑う。
「何の話だ」
「廊下で立ち話っていうのもねぇ」
 ジンは舌打ちして歩き始める。
「オレの部屋に行こう」
 ジンの後ろについて歩きながら、ライはずっと笑いをかみ殺している。それがジンの神経を逆なでした。
 ちょうど部屋の前に着いた時、向こうからやって来た侍女のモモカに出くわした。
 ライの姿を見て会釈をすると、彼女はジンに声をかけた。
「お客様にお茶をお持ちしましょうか?」
「頼む」
「かしこまりました」
 軽く頭を下げてモモカは立ち去った。ジンが部屋の扉を開けて振り返ると、ライはモモカの後ろ姿に見とれている。更に苛つきながら、ジンはライを促した。
「女に見とれてないでさっさと入れ」
 二人で部屋に入り扉が閉じられた途端、ライはこらえきれずにクスクスと笑い始めた。
「そんなに警戒しなくてもカイト様は人間だよ。クルミ様を取って食ったりしないよ」
「そんな事は知っている。だがあいつはクルミの自称婚約者だ」
「私と違って紳士だから心配ないって」
「おまえは女に見境がなさ過ぎる」
 ジンが吐き捨てるように言うと、ライはおどけたように目を見張った。
「失敬な。一応、人間の女は香りで選んでるよ。さっきの子もなかなかよかったけど、クルミ様は桁違いだな。側にいるだけで酔ってしまいそうだ。君はよく平気だね」
「おまえほど鼻が効くわけじゃないからな」
 ライの本性は狼に似た獣だ。鼻が効くので獣よけの香水はあまり意味をなさない。
 モモカの香りは香水にかき消されていてジンにはほとんどわからないのだ。
 女に見境のないライだが、人間の女と交わる事はない。本人曰く寸止めだという。
 もっとも交われば獣には匂いでばれてしまうので、誰かに密告されて粛清されてしまうだろう。
 ライがうっとりした目でつぶやいた。
「あんな極上の女って初めてだ。味見してみたいなぁ」
「あいつはオレの警護対象だ。ちょっかい出す獣は狩るぞ。この間も一匹始末したしな」
「相変わらず容赦ないね、君は」
 立ち話をしているところへモモカが茶を運んできた。二人でソファに移動する。
 ライはモモカに声をかけてアピールしていたが、彼女は取り合わずうまく躱して部屋を出て行った。
 モモカは侍女の中では一番出来がいいとジンは評価している。ライの色香ごときには惑わされない。だからこそクルミの側仕えになっているのだろう。
 全く相手にされなかったライは少し不満げに茶をすする。それを横目にジンも茶を口にしながら切り出した。
「それで話ってのは何だ?」
「あぁ、この間チラッと話したけど、ザキが動いてる。まぁ、動いてるのはあいつだけじゃないけどね」
 極上の女を手に入れるため、今獣たちは人間の街を徘徊している。食ったり交わったりするためではない。
 百年に一度の約束の日に、領内で最高の女を獣王に献上できれば、褒美として権力や財産が手に入るからだ。
「おまえは動かないのか?」
「私は権力に興味ないからね」
 しれっとして答えるライをジンは鼻で笑う。
「よく言う。王が転べば、取って代わる気満々のくせに」
「転べばね。でもそう簡単に転ばないだろう? 今の王は」
「そうだな」
 ライはソファの背にもたれながら大きくため息をついた。
「でも君がクルミ様ほどの上物を押さえてるとなると、他の奴らは分が悪いな」
「オレはそんなレース参加資格がない」
「そうだけど、領内で最高じゃないとダメなんだよ。クルミ様以上の女なんていないだろ」
 そしてライは意味ありげにニヤリと笑った。
「ザキは当てがあるみたいだけどね」
「多分クルミだろう。クルミが五年前に遭った獣はおそらくザキだ」
「なんだ、知ってたんだ。あいつ王に献上する気なんてないよ。最高の女で力を得て粛清される前に獣王戦を挑むつもりだ」
「筋肉脳の考えそうな事だな」
 フッと笑ってライは席を立った。
「話はそれだけ。クルミ様の身辺に気をつけた方がいい。ザキがいずれここに来る」
「おまえに言われるまでもない。あいつを守るのはオレの仕事だ」
 ジンは不敵の笑みを浮かべてライを見つめ返した。




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