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11.疑惑の真相




 しばらく席を外していたジンが、ライと一緒に戻ってきた。そしてすぐに兄とライは、クルミとジンに挨拶をして帰って行った。二人とも相変わらず忙しいようだ。
 クルミはそのまま午前中をリビングで過ごし、昼食後も居座った。今日は午後から立て続けに二人の家庭教師がやって来る。
 学習の時間になり、クルミは自室に戻ってジンと別れた。一人目の教師が帰った後、モモカがやって来た。
 二人目の教師が急病のため来られなくなったらしい。突然ぽっかりと時間が空いてしまった。
 ジンはいつも午後の学習の時間に遅れて昼食を摂り、そのまま休憩に入る。今はまだ眠っているかもしれない。
 モモカが呼びに行こうとしたが、クルミは引き止めた。ジンはいつも午前と午後の二回に分けて細切れに眠っている。
 今日はせっかくまとめて眠れるのだから休ませてあげたかった。それに彼と二人きりになる時間はなるべく減らしたい。
 以前行方をくらました事があるのでモモカは難色を示したが、クルミが自室ではなく人の出入りがあるリビングにいる事を約束すると、渋々ながら了承した。
 クルミは刺しかけの刺繍を持ってリビングに移動する。ソファに座り刺繍を刺していると、時々モモカがお茶を運んできたり様子を見に来たりした。
 昼間にこれほど心安らぐ時間を過ごしたのは久しぶりだ。しばらく熱中している内に刺繍は完成した。
 時計を見ると中途半端な時間だ。これから何か別の事を始めれば、また熱中して時間を忘れてしまいそうな気がする。
 そんな事になるとまたジンが探しに来て、どんなお仕置きが待っているか想像しただけで怖い。
 学習終了の時間には少し早いが、クルミはジンを呼びに行く事にした。
 一旦部屋に戻り刺繍を置いてジンの部屋を訪れる。扉をノックしたが返事はなかった。声をかけながら恐る恐る部屋を覗いてみる。
 部屋の中にジンの姿はない。まだ寝室にいるのだろうか。自分が行っていいのか迷って足が止まる。すると奥の部屋からうめき声のような声が聞こえてきた。
 具合が悪いのかと心配になり、早足で寝室に向かう。扉が薄く開いていた。その向こうから声が漏れている。
 近づくとジンの声でない事がわかった。明らかに女の声だ。あの移り香の主に違いない。クルミは引き寄せられるように、ゆっくりと扉に近づいた。
 聞こえてしまうのではないかと心配になるくらいに鼓動が激しくなる。
 扉の隙間から覗いた部屋は薄暗く、裸のジンの背中が目に飛び込んできてハッとした。その下にいる女を見た瞬間、クルミの目は一気に見開かれた。
 獣のように四つん這いになり、髪を振り乱しながらはばかる事なく嬌声を上げている。あんな女は知らない。
 けれどその顔は、紛れもなくクルミの母だった。
 クルミはよろよろと後ずさり、そのまま足音を忍ばせて部屋を出た。廊下に出た途端力が抜けてその場にへたり込む。止めどなく涙があふれてきた。
「クルミ様、どうしたんですか?」
 声に顔を上げると、コウが心配そうに駆け寄ってきて側にしゃがんだ。ショックのあまり混乱したクルミは彼に縋りつく。
「ジンが……。お母様が……」
「とりあえず部屋に戻りましょう」
 コウは少し焦った様子でクルミの手を取り立ち上がらせる。そして身体を支えながら部屋へ連れて行った。
 部屋に戻ってソファに座らされ、コウが渡してくれたハンカチで涙をぬぐう。コウは黙って傍らにたたずんでいた。
 少しして気持ちが落ち着いてくると、先ほどのコウの様子が妙に引っかかった。
 母とジンの関係にそれほど驚いている様子でもなく、取り乱したクルミがそれ以上口走るのを恐れたかのように部屋へ連れ戻した。
「コウは知っていたの?」
 俯いたまま尋ねるが返事はない。少しして絞り出すようなか細い声が聞こえた。
「すみません」
 たとえ知っていてもクルミに告げるわけにはいかないし、コウの立場では二人に意見する事もできないだろう。
 不実な関係だと分かっているはずなのに、クルミを傷つけないようにという配慮なのか、優しいコウは二人を弁護する。
「奥様は旦那様が留守がちで、ずっと寂しい思いをしておいでてした。ジン様もクルミ様を守るために力を必要としているんです」
 獣の血を引くジンは獣同様人間の女と交われば、獣の能力が増大するのだろう。
 それにしたって、どうして母なのかと思う。やりきれない思いにクルミは顔を歪めた。クルミの心中を察してコウは尚も続けた。
「奥様はクルミ様には遠く及びませんが、強い香りをお持ちです。今領内に獣が多く出没している事はご存じでしょう? その中でも特に危険な奴がクルミ様を狙っているらしいんです。五年前にクルミ様を襲った奴です」
 五年前といえば、あの黒い獣だろうか。粛清されたわけではなかったらしい。そんな事を考えながら、ふと気付く。こんなに詳しい獣の生態は本に書かれていない。
「どうしてコウはそんな事を知っているの?」
 クルミは俯いていた顔を上げ、コウを真っ直ぐ見つめる。彼は弱々しく微笑んだ。
「それをオレの口から話す事はできません。察してください」
 ジンに聞いたわけではなさそうだ。聞いたのなら聞いたと言う事に何も問題はないはずだ。先日の事を思い出し、クルミは結論に達した。
 食料置き場でコウがクルミを連れ出したと勘違いしたジンが、過剰なほどの反応を示したのは、コウが人間ではないからだ。
 父も兄も獣が人の姿になれる事は知っていても、人の社会で暮らしている事は知らない。正体が知れれば、コウはここにいられなくなるだろう。
「オレはクルミ様に危害を加えるつもりはありません。ジン様のように強くはないけど、クルミ様を守りたいと思っています」
「うん。コウが優しい事は知ってる。誰にも言わないから安心して」
 クルミが笑顔を向けると、コウも安心したように笑った。
 その時、扉が勢いよく開かれた。弾かれたようにコウと同時にそちらに目を向ける。視線の先にはジンがいた。
 入ってきた時の焦ったような表情は一瞬にして消え、ジンは不愉快そうに眉を寄せる。
「リビングにいないと思えば、ここにいたのか」
 あまりに衝撃を受けていて、ジンを呼びに行く事をすっかり忘れていた。またしてもうっかり、モモカに迷惑をかけたかも知れない。
 ジンの冷たい瞳がクルミの次にコウを捉えた。
「ポンタ、またおまえか」
 全身に敵意をまとい足早にコウへと向かうジンを見て、クルミは慌てて立ち上がった。また謂われのない事でコウが痛めつけられるのは、クルミとしても堪らない。
 素早くコウの前に立ちはだかり、ジンの行く手を阻む。
「コウは廊下で倒れた私を、ここへ運んでくれただけです」
 精一杯目に力を込めて挑むようにジンを見上げる。歩を止めクルミを見下ろすジンの表情が少し緩んだ。
「具合が悪いなら医者の手配を頼もう」
「いいえ。必要ありません」
 ジンとは話したい事がある。二人きりになるのは嫌だが、コウを巻き込みたくない。クルミはコウを振り返った。
「コウ、ありがとう。もう大丈夫よ」
 心配そうに瞳を揺らしていたコウは、クルミの意を汲み頭を下げて部屋を出て行った。
「倒れたんだろう? 大丈夫でも診てもらえ」
 冷めた表情は変わらないものの、心配するような口ぶりが意外だ。側にいながらクルミの体調不良に気付かなかったら、自分の失態になるからだろうか。
 そんな事より、クルミはどうしてもジンに訊きたいことがあった。
「あなたを呼びに行ったから気分が悪くなったんです」
 意味は通じたのだろう。ジンの面に見慣れた意地悪な笑みが浮かぶ。
「見たのか。のぞきとは、いい趣味だな。お嬢様」




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