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12.欲するもの




 理由が知りたい。たとえどんな理由があったとしても許しがたいとは思う。けれどコウの憶測ではなく真実が知りたい。
「見たくて見たわけではありません。むしろ見たくはありませんでした。どうしてお母様なんですか」
 許すことができなくても、二人が愛し合っているなら百歩、いや千歩くらい譲れば仕方ないと思えるかもしれない。
 不実な関係を見られたというのに、ジンはまったく悪びれた様子もなく余裕の薄笑いを浮かべて答えた。
「誘われたからだ」
「お母様を愛しているの?」
「別に」
 パンと派手な音が響く。気付けばクルミは、反射的にジンの頬を打っていた。
 打たれた頬を軽く撫でて、ジンは不愉快そうに眉をひそめる。
「なんであんたが怒るんだ」
「いくら誘われたからって、愛してもいないのにあんな事っ……! お母様に失礼です」
 拳を握りしめ頬を紅潮させて怒鳴るクルミをジンは冷ややかに見下ろした。
「身体の欲求は必ずしも愛情を伴うとは限らない。愛がない事くらい奥様は承知の上だ。小娘のあんたには理解できないか」
 確かに理解できない。けれど馬鹿にされた事は理解できる。再び手を振り上げたところ、素早く手首を掴まれた。
「二度も黙って叩かれてやるつもりはない」
「お母様に夫がいる事はあなたも知っているでしょう? お母様は承知の上でもお父様が承知するわけはありません!」
「フン。どうだかな」
 クルミの正論にも、ジンは鼻で笑った。
「貴族の結婚なんて、大半は家同士の繋がりの強化と家を存続させるための政略結婚だろう。元々愛情なんか希薄だ。跡継ぎができればそれでいい。愛人を何人も囲っている当主なんてゴロゴロいる。役目が終わって夫に愛想を尽かした奥方も平気で不貞を働く。互いに見て見ぬふりだ。現に奥様は、もう長い間旦那様と寝所を共にしていないと言っていた」
「それは、お父様がお忙しいから……」
「そんなのは世間知らずのあんたが抱いた幻想だ」
 世間知らずと言われれば、世間から隔絶されたクルミには反論できない。ジンは今まで色々な貴族の屋敷で現実を見てきたのだろう。
 仕事熱心な父と物静かで優しい母。外に出る自由は封じられているけれど、クルミの信じていた穏やかで暖かい家庭が、ジンの言う幻想となって霧のようにかき消えていくような気がした。
 呆然とするクルミを、掴んだ手首を引いて抱き寄せ、ジンが耳元で囁いた。
「愛がなくても身体は快楽を欲するという事、あんたも知っているはずだ」
 背筋にゾクリとあの感覚が蘇る。嫌われているジンに触られて、快感を覚えた事は否定しない。けれど断じてそれを欲してはいない。
 欲しいのは快楽よりも先に心なのだ。心がここにないのに快楽だけ得られても、後に残るのは背徳感と虚しさだけ。
 温かい腕に包まれその温もりに、ジンの心がここにあると勘違いしてしまいそうになる。かすかに鼻をくすぐる母の移り香にクルミがハッと我に返った時、再びジンが囁いた。
「思い出させてやる。オレに手を上げた罰だ」
「いやっ……!」
 逃れようともがくクルミをものともせずに、ジンはクスクス笑いながら髪をかき上げてうなじに指を這わせたり、耳を甘噛みしたりする。
 このままでは、またジンの思うままに翻弄されてしまう。気を逸らそうとクルミは話しかけた。
「誘われたら、あなたは誰にでも応じるのですか?」
「そんな事はない。ライじゃあるまいし」
「じゃあ、どうして……」
「奥様は強い香りを持っている。あんたほどじゃないけどな」
 コウの言っていた通りだ。という事は、五年前の獣が狙っているというのも本当なのだろう。
「オレは力を得られる。奥様は快楽を得られる。互いに欲しいものが得られるんだ。合理的だろう?」
「人間の女と交われば粛清されるんでしょう?」
「オレに掟は適用されない」
 獣の血が流れていても、ジンは完全な獣ではないからだろうか。
 いつの間にか、さっきまで座っていたソファの前まで追い込まれていた。ふくらはぎをソファの座面に押され、クルミは尻餅をつくようにソファに腰を落とす。
 ジンは眼鏡を外して隣に座り、クルミの両肩を掴んで背もたれに押さえつけた。
「おしゃべりは終わりだ」
 ゆっくりと近づいてくる顔を見つめながら、最後の抵抗を試みる。
「お母様を利用して力を得たあなたに守られるくらいなら、五年前の獣に食べられた方がマシです」
 ジンの動きがピタリと止まった。意地悪な薄笑いが消え、瞬時に表情が険しくなった。肩を掴んだ手に徐々に力が加わる。
「本気で言っているのか?」
「い、痛い……」
「本気であいつに食われたいのか?!」
「食べられたくなんかありません!」
 何が怒りに火をつけたのか分からない。肩に食い込む指の痛みに生理的な涙が滲む。
「あんた、五年前にあいつと何か話したのか?」
「話なんかしていません」
「オレに話してない事があるんじゃないのか?」
「覚えている事は全部話しました」
「そうか」
 ジンはフッと息をついて表情を緩めた。同時に肩を掴んだ手も緩める。痛みが引いてクルミもホッと息をついた。
 ホッとしたのも束の間、いきなりジンがクルミを抱きしめた。そういえば意地悪の真っ最中だった。
 また強引に口づけられたり触られたりするのかもしれない。それとも、うっかり滲んだ涙を舐めるつもりだろうか。クルミは身構えて身を固くする。
 ところがジンはクルミをきつく抱きしめ、肩の上に顔をうずめたまま動かない。
 予想外の状況にクルミは戸惑う。
「あの……、私何か大切なことを忘れているんでしょうか」
 ためらいがちに声をかけると、ジンは顔を上げてクルミから離れた。そして眼鏡をかけながら何食わぬ顔で席を立つ。
「覚えてないならいい」
 吐き捨てるようにつぶやいて部屋の隅へ向かうジンの背中をクルミは呆然と見つめた。




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