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13.密約 |
灯りを消して横になったものの、昼間のジンの様子が気になって、クルミは眠れずにいた。 月のない夜。部屋の中は一層暗く、外にいるジンの影も見えない。 五年前の獣と言葉を交わした記憶はない。けれどジンは、それを気にしていた。 ジンは何か心当たりがあるのかもしれない。少しでも教えてもらえれば、忘れている何かを思い出すかもしれない。 クルミはベッドから跳ね起き、肩掛けを羽織って窓へ向かった。カーテンを少し引いて外を窺う。以前見た時のように、ジンが背中を向けて立っていた。 そっと窓を開くとジンが振り返った。 「何か用か?」 「訊きたいことがあるんです」 「明日にしろ。月のない夜は獣が多く徘徊する。あんたの強すぎる香りは標的になる。窓を閉めろ」 気になって眠れないまま、明日を待つなんてできない。 「では、あなたが部屋に入ってください」 背中を向けようとしていたジンが一瞬驚いたようにこちらを向いた。しかしその表情は、すぐにいつもの意地悪な笑顔に変わる。 「やけに積極的だな。オレを警戒していたんじゃないのか?」 ばれている。あれだけあからさまに二人きりになるのを避けていれば当然とも言えるが。 「窓を閉めては話ができません。明日ではなく今訊きたいんです。他意はありません」 最後の一言を特に強調する。ジンは諦めたようにフッと笑った。 「わがままはお嬢様の特権か。ちょっとそこをよけろ」 言われた通りにクルミが窓から離れると、ジンは窓枠に片手をついて跳躍し、ヒラリと足音もなく部屋の中に入ってきた。 相変わらずしなやかな身のこなしに見とれてしまう。その隙にジンは窓を閉めカーテンを引いた。部屋の中は再び暗闇に支配される。 夜目の利くジンは平然と部屋の中を移動していた。気配は感じるもののクルミにははっきりと見えない。 とりあえず灯りをつけようとベッドの方へ足を向けた時、小さな灯りが点った。 枕元にある灯りがついている。その横でジンがベッドの縁に腰掛けていた。クルミがつけようと思っていた灯りを彼がつけたようだ。 「話があるんだろう? あんたも座ったらどうだ?」 からかうような笑みを浮かべて、ジンは自分の隣をポンポン叩く。 ジンの手が届く範囲に座ったら、話を聞くどころではないような気がする。少しの間ためらった後、クルミはジンから距離を置いてベッドに腰掛けた。 それは想定内だったようで、ジンはクスクス笑いながら促した。 「それで何が聞きたいんだ?」 「五年前のことです。私が何か忘れているのなら教えてください」 「あんたが忘れている事をオレが知るわけないだろう」 「でもあなたは気にしていました。何か思い当たることがあるんじゃないですか?」 少し身を乗り出して食い下がるクルミを一瞥し、ジンは気まずそうにボソリとつぶやいた。 「別に思い当たることがあるわけじゃない。あんたがあいつに食われたいなんて言うから、食われる約束でもしていたのかと思っただけだ」 当たり前のように漏らしたジンの言葉に、クルミは呆気にとられる。”食われる約束”なんて普通交わすものだろうか。 クルミの事を世間知らず呼ばわりするが、獣社会の常識も充分世間ズレしていると思う。 たとえ約束していたとしても、どうして五年も経った今になってやって来るのか分からない。 首を傾げるクルミにジンはあっさりと告げた。 「約束の日が近いからだ」 聞き覚えのある言葉にハッとなる。兄は仕事の契約だと言っていたが、焦ってごまかしている様子が気になっていた。どうやら獣たちと関わりがあるようだ。 ジンは何かを知っているらしい。兄が隠そうとしていた事を教えてくれるだろうか。クルミは慎重に言葉を選びながら問いかけてみた。 「約束って?」 「領主の娘が知らないのか?」 ジンが意外そうに目を見張る。それがクルミにも意外だった。兄ではなく父に関わりのある事らしい。 ジンはすぐに納得したように笑いながら頷いた。 「まぁ”娘”には話せないか」 「どういう事ですか?」 「代々獣王に伝わる領主との密約だ。百年に一度、領内で最高の女を差し出す代わりに、領内の女に獣たちの手出しを許さないというものだ」 つまり、百年に一度、領主から獣王へ密かに生贄が差し出されているという事だ。 人である領主には獣にとっての最高の女が誰なのか判別はできない。女の指定は獣王から領主に伝えられるらしい。それが約束の日だ。 人間の中でこの密約を知っているのは歴代領主だけだ。この約束がなければ、獣の森から獣たちが好き勝手に押し寄せ、女を襲うことになる。 人間の女を襲えば粛清されるという獣たちの厳しい掟もこの約束に由来している。 領主は女ひとりの犠牲で百年の平穏が保たれ、獣王は最高の女で力を得て他の獣たちの力も抑制できる。ただ、獣王だけいい思いをしては他の者たちが不満を募らせるので、獣王に最高の女を提示した者には褒美が与えられるらしい。それで最近、領内で獣たちが目立って出没しているのだ。 父は良心が咎めていたのかもしれない。獣に女を襲われた家庭には手厚い援助を行っている。後ろ盾もない幼いコウを雇ったのもそのせいだろう。 「獣王に差し出された女はどうなるんですか?」 「獣王によるな。妻として大切に扱う者もいれば、交わって食っちまう奴もいる」 食べられてしまうのも悲惨だが、獣の妻というのもどうだろうと思う。普段人の姿をしていたら大丈夫なのだろうか。 「あんたの父親は領主だ。あんたが思っている以上に獣の事に詳しい。あの香水を開発した時点でかなり切れ者だ。よほどあんたを守りたいようだな」 獣が香りで女を識別していることを父は知っている。そして人の社会に紛れ込んでいる事も知っているのだろう。 クルミを屋敷に閉じ込めて他人との接触を禁止したのは、約束の日に一人娘を生贄にしたくなかったから。 「だが皮肉な事にあの香水は、香りにつられて領内に迷い込む獣を減らすことはできたが、逆にいい女を見分けやすくした」 極上の女の香りは香水で打ち消す事ができない。クルミ以外にも母のように香りをごまかしきれない女が他にもいるのだろう。 「五年前の獣が私を狙っているのは獣王に差し出すためですか?」 「いや。あいつは力を得て獣王に取って代わる気だ。あいつの手に落ちれば、あんたは間違いなく食われる」 クルミはゴクリと生唾を飲み込む。 あのきれいな獣にもう一度会いたいと思っていた。そしてその時は食べられてしまうとしても、それでもかまわないと思った。けれど実際に相手がそのつもりだと聞いてしまうと、やはり怖い。 背筋に悪寒が走り、自分で自分の身体を抱きしめる。するとその上からジンの腕がクルミを包み込んだ。 話に夢中になって、自分から距離を縮めていたようだ。 「あいつに食わせたりしない。あんたはオレが守る」 それがジンの仕事だから。分かっていても嬉しくて心強い。クルミはジンの胸に頬を寄せて頷いた。 「はい。信じています」 |
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