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15.襲撃




 クルミの部屋を出たジンは、辺りをぐるりと見渡した。部屋の中で微かな足音を聞いた。庭の中には何者かの気配が潜んでいる。
 そよそよと静かな夜風がジンの髪を揺らし、鼻先を覚えのある獣の匂いがかすめた。匂いを辿りながらジンは、風上に向かってゆっくりと歩を進めた。
 獣は匂いで個体を識別する。獣によっては複数の人型を持っている者もいるので姿形は当てにならないからだ。
 ジンはきれいに刈り込まれた背の低い庭木の脇を抜け、丸い芝の庭に入る。中央の池には、所々に花をつけた睡蓮が浮かんでいた。池を囲む円庭の向こうには、三角屋根の東屋があり、その両脇には少し背の高い木が植えられている。
 池を迂回して東屋の手前で立ち止まったジンは、木の陰に向かって声をかけた。
「出てこい、ザキ。いるんだろう?」
 木の影が揺らぎ大男が姿を現した。侯爵邸の警備員と同じ制服を着たその男は、長身のジンが見上げるほどに上背がある。細身のジンとは対照的に体つきもがっしりしていて、腕や胸など服の上からでも分かるほどに、筋肉が盛り上がっていた。
 敵意をむき出しにした金の瞳がジンを見据える。
「ジン、なぜおまえがここにいる」
「それはこっちのセリフだ。警備員に化けて何の用だ」
「化けたのではない。オレはこの会社で働いている」
「そうか。オレもここでボディガードをしている。奇遇だな」
「女を守るなど、何の嫌がらせだ。オレたちが最高の女を捜している事は知っているだろう」
「探しているだけの奴は邪魔しない」
 ザキは忌々しそうに歯がみした。
「ここに極上の女がいるだろう」
「だったらどうする。獣王に献上するのか? おまえがそんな殊勝な奴だとは知らなかった」
 人を食ったようなジンの物言いに、ザキの顔は益々怒りで紅潮する。握った両の拳がブルブルと震え始めた。
 ジンはフンと鼻を鳴らし、静かに警告する。
「立ち去れ。そうすれば見逃してやる」
「ふざけるな!」
 とうとう怒りが爆発したザキは、叫ぶと同時にそばにあった太い庭木を片手でへし折った。
「あの女はオレが五年前から目をつけていたんだ!」
 全身に怒りの闘気をまとい、ザキの姿がゆっくりと変化していく。筋肉が更に盛り上がり、身につけた警備服の上衣が裂けた。鼻と口元が前に突き出し、露わになった上半身や顔が徐々に真っ黒な毛に覆われていく。
 半人半獣と化したザキは、天に向かって雄叫びを上げ、ジンを目がけて突進してきた。
「ちっ! バカが……」
 素早く身を躱したジンは、伸びてきたザキの腕を掴み軽々と放り投げた。地面に背中を打ち付けたザキは、うなりながら身体を横に転がす。起き上がろうと手を突いたザキの背中を踏みつけて、ジンは馬乗りになった。
 ジタバタともがく両手を捕まえ背中に回しひねり上げる。ザキは苦痛に顔を歪めながらわめいた。
「くそぉ! おまえ女と交わったな! 掟に縛られてないからって卑怯だぞ!」
「何が? おまえのような筋肉バカを相手に正攻法でいけるか。特権は存分に活用させてもらう」
 鋭い爪を伸ばしたジンの手がザキの頭を無造作に掴みじわじわと締め付ける。爪が食い込んだ額に血を滲ませながら、ザキがうめき声を上げた。
 その様子を見下ろして、ジンは冷たい笑みを浮かべる。
「オレの警告を無視した自分の愚かさを呪うがいい」
 頭を掴んだ手を離し、ジンはザキの首に手をかけた。その時、クルミの悲痛な声が庭に響いた。
「ジン――――!」
 ジンが顔を上げ一瞬そちらに気を取られた隙を突いて、ザキは腕を奪い返し、上に乗ったジンを振り落とす。バランスを崩したジンの右腕にザキが噛みついた。
 ジンはすかさず左手の爪を繰り出す。ザキはそれを避けて間合いを取った。
 ジンが立ち上がり、二人はしばし睨み合う。
 風向きが変わり、夜風に乗って極上の甘い香りが辺りに漂い始めた。ザキが突き出た鼻をヒクヒクさせて目を輝かせる。
「この香り……! 間違いない。五年前の女だ!」
 ジンは内心舌打ちする。
(あのバカ! おとなしくしていろと言っておいたのに)
 ザキが風上に向かって一歩踏み出した時、一発の銃声が響いた。どうやらザキの咆哮に気付いた屋敷の人間が、獣を牽制するために撃ったようだ。
 ザキは舌打ちして踵を返し、そのまま闇の中に走り去った。
 程なく灯りを持ったコウに導かれ、猟銃を携えた警備員がやって来た。
「ジン様!」
 血相を変えて駆け寄ってきた二人に、ジンはザキが走り去った闇を指差した。
「オレの事はいい。奴を追ってくれ」
 警備員は頷いてコウから灯りを受け取り、闇の中に消えていった。
 ザキが噛みついた腕を押さえて、ジンはひとまずホッと息をつく。指先から滴り落ちる血を見てコウが心配そうに手を伸ばしてきた。
「すぐに傷の手当てを」
「こんなもん、舐めときゃ治る」
 獣によっては牙に毒を持つ者もいるが、幸いザキは筋肉しか取り柄がない。ジンは袖を引きちぎり、血をぬぐった後傷口を舐め始めた。そして地面に落ちている警備服の残骸を拾いコウに渡す。
「執事に報告してくれ。警備会社にザキが潜り込んでいる」
「わかりました」
「オレはクルミの側に行く。あのバカ、窓を開けっ放しだ。わかるだろう?」
「はい」
 ジンから一連の状況を聞いたコウは大きく頷いた。立ち去ろうとするコウの背中へ向かってジンが一言付け加えた。
「ライにも知らせてくれ」
「はい」
 コウを見送った後、ジンは傷口を舐めながらクルミの部屋へと足早に引き返した。
 次第に強くなっていくクルミの香りに、彼女がまだ窓を閉めていない事が分かる。
 普段はうっとりとさせる甘い香りが、今は無性に苛立たせた。
 部屋の近くにたどり着くと、クルミが窓から身を乗り出し、半泣きで辺りを窺っているのが見えた。人の目にこの庭は暗闇に閉ざされて見えるのだろう。これほど近くにいるのに、クルミにはジンの姿が見えていないようだ。
 苛立つ気持ちのまま、ジンは窓に近寄り声を荒げた。
「おとなしくしてろと言っただろう。あいつにあんたの存在がばれた。さっさと窓を閉めろ!」
 するとクルミは目の前にやって来たジンの首に腕を回し、いきなりしがみついた。
「よかった、無事で……」
 クルミの腕の温もりと濃厚な甘い香りが頭の芯を痺れさせ、ジンの苛立ちは徐々に鎮まっていく。
「無事じゃない。少しよこせ」
 弾かれたように顔を上げ、腕をほどいたクルミは、ジンの姿を眺めて腕の傷に気付いた。まるで自分が傷ついたかのように、眉を寄せ目に涙を滲ませる。
 捕まえようとジンが腕を伸ばした時、クルミが再び首にしがみついた。そして自分からためらう事なくジンの唇に口づけた。
 予想外なクルミの行動に、ジンはしばし呆気にとられる。すぐに唇を離したクルミは目に涙を浮かべたまま、目の前で告げた。
「私の身体があなたを守るために役立つなら全部差し上げます」
 ジンはフッと笑い、左手でクルミを抱き寄せ、そのまぶたに口づける。クルミの涙に舌が痺れ、次第に身体が、傷口が熱くなっていく。
 まるで即効性の媚薬。酒に酔っているような、うっとりとするこの感覚に獣たちは病み付きになるのだ。
「今の言葉、後悔するなよ。撤回は受け付けない」
 返答を待たずにジンはクルミの唇を塞いだ。そして右腕の傷が癒えるまで、存分にその甘露を享受した。




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