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16.銀色の獣 |
翌日、夜中に現れた獣の事で屋敷内は騒然となった。朝から父と兄が帰ってきて、代わる代わるにクルミの身を案じた。ジンが撃退してくれたことを告げると、今度は二人ともジンを手厚く労う。以前火花を散らしていた兄にまで、手放しで感謝されジンの方が面くらっていた。 警備会社に獣が紛れ込んでいたため、警備員は全員改めて身元の調査が行われたが、警備会社が変更になることはなかった。人の姿で潜り込んでいた獣は、夜の内に行方をくらまし、会社からは連絡がつかなくなっている。他の会社に潜り込む可能性もあるので、身元調査の行われた警備員の方が安心できた。 筋肉バカでもそれくらいの知恵はあったらしい、とジンは言う。それを聞いて、クルミは違和感を覚えていた。 ゆうべの様子を思い出しても、庭木をへし折るほどの怪力を持った獣だと想像できる。その獣をジンは”あいつ”と呼んだ。つまり五年前の獣だ。 五年前にクルミの寝室に現れた、しなやかできれいな黒い獣とは、あまりにもイメージが一致しない。実際にどれほどの力を持っているのかは知らないので、もしかすると見た目に反して怪力の持ち主なのかもしれないが。 そこまで考えてハタと思い出した。ずっと会いたいと思っていたので、五年前の獣といえば、あの黒い獣だと思い込んでいたが他にもいた。 通学路で出遭った熊のような獣。姿形もはっきりとは覚えていないが、大きくて熊に似ていた。そちらの方なら、怪力でも頷ける。 もう一方の黒い獣は、どことなくジンに似ている気がした。もしかしたらあの獣がジンの父親なのかもしれない。 夜になり、ジンと別れて寝室に入ったクルミは、ベッドの縁に腰掛けてそんな事を繰り返し考えていた。 昨日の今日で同じ獣がやって来るとは思えないが、やはり怖くて眠れない。自分の身もさることながら、ジンがまたケガを負わされたらと思うと、胸がキュッと締め付けられるような気がした。 しばらくそうしていると、窓をコツコツと叩く音がした。ハッと顔を上げたクルミは窓を凝視する。 窓の外にはジンがいるはずだ。けれどこれまでジンの方からクルミを呼んだことはない。本当にジンだろうかと躊躇してしまう。すると今度はノックと共に声が聞こえた。 「オレだ」 クルミは駆け寄り窓を開けた。窓の外にいたのはやはりジンだった。顔を見た途端、先ほど考えていたことが気になって、クルミは唐突に切り出した。 「ゆうべの獣は五年前に通学路で遭った熊のような獣ですか?」 「あぁ、そうだ」 やはり思った通りだ。 「では、寝室に入ってきた黒い獣の方は……」 矢継ぎ早に尋ねると、ジンはあからさまに不愉快そうな顔をした。 「知るか。そんな事より少しよこせ」 有無も言わさずクルミを抱き寄せ口づける。クルミはおとなしく目を閉じた。 口づけを受けながら、クルミはなんとなく後ろめたさを感じていた。 ジンに自分の身を全て捧げると自分から言った。その事にためらいはないし、撤回するつもりもない。自分がジンのためにできる事は、それだけしかないから。 けれど母の事が気になった。ジンは母との間に愛はないと言った。彼は母を愛してはいない。でも母は? 本当に快楽だけを求めたのだろうか。母も自分と同じようにジンの心を求めているのだとしたら……。 直接尋ねるわけにもいかない。たとえ尋ねる事ができてその通りだとしても、身を引く事ができるとも思えない。 だとしたら、自分のしている事は伴侶がいるかいないかの違いだけで、母と何も変わらない。それが後ろめたさの原因なのだろう。 なにしろジンの心は誰にも捕らわれていない。彼が求めているのは力の源なのだから。 不意にジンが唇を離した。クルミはゆっくりと目を開く。ジンは少し先にある庭木の陰を見つめていた。 ドキリとして身体に緊張が走る。また獣が侵入したのだろうか。今宵も庭は闇に閉ざされていて、クルミにはかろうじて庭木の輪郭が見えるだけだ。 ジンの視線の先からガサガサと庭木の揺れる音がして、闇から分かたれた影がゆっくりとこちらに近づいてきた。意外にもジンはそれを注視したまま動かない。 ジンの側までやって来たそれは、狼に似た獣だった。窓から漏れた淡い光に照らされて、銀色の毛並みが艶やかに輝いている。ゆったりと尾を振りながら、獣は窓に近づいてきた。 どうしてジンは動かないのだろう。敵意は感じられないものの、また噛みつかれでもしたら――。 そう思ったクルミはジンの肩を掴んだ。 「ジン!」 「心配ない。こいつはオレの配下だ」 くぅんと少し不満げな声を漏らして、獣はジンの足を前足で軽く掻く。そして勢いをつけて身体を起こし、両の前足を窓枠に乗せた。 犬のようにパタパタと尾を振りながら、青い瞳が上目遣いにクルミを見つめる。 愛嬌のあるかわいらしい表情に思わず頬が緩んだ。クルミがそっと頭を撫でると、銀の獣は身体を伸ばして、クルミの口元をペロリと舐めた。 「きゃっ」 クルミの小さな悲鳴と同時に横からジンの鋭い爪が獣に向かって繰り出される。獣はヒョイと飛び退いて窓から離れた。 ジンと距離を取った獣は二本足で立ち上がった。その身体が見る見る人型に変化していく。 少しして半人半獣と化した獣は、緩くウェーブのかかった銀の髪をかき上げながら、ゆっくりと顔を上げた。 手の甲や背中、下半身が銀の毛並みに覆われたままのその人は、紛れもなく兄の秘書をしているライだった。 頭の上に残っている獣耳をピクピクさせて、ライはおどけたように肩をすくめる。後ろでは銀のしっぽがゆらゆらと揺れていた。なんだか完全な獣だった時よりも、余計に可愛く見える。 「ホント容赦ないね、君は。思い切り殺気を感じたよ」 「前に警告したはずだ」 「はいはい。それにしても、いつから私は君の配下になったんだか……」 「男が細かい事を気にするな」 平然と会話を続ける二人に、クルミはおずおずと割って入った。 「あ、あの……ライ、ですよね?」 ライは胸に手を当て、笑顔で恭しく頭を下げた。 「これはクルミ様。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。夜分遅くにこのような姿で失礼いたします。人型でなければ人の言葉が話せませんので」 「だったら最初から人の姿で来ればいいだろう」 「急いでたんだよ。人の姿じゃ無駄に時間がかかるからね」 昨日の騒ぎで警備は厳しくなっている。獣の姿でよく侵入できたものだと思ったら、コウが手引きしたらしい。 ライはイタズラっぽく笑って、クルミにチラリと視線を送った。 「クルミ様から君の匂いがしたよ。もしかしてお邪魔だったかな?」 ジンとキスをしていた事を見透かされたようで、クルミは俯いた。顔が熱い。ジンはおかまいなしに、しれっとして言葉を返す。 「邪魔だ。冷やかしに来たならとっとと帰れ」 「まぁまぁ。急いで知らせたい事があるんだよ」 「何だ」 「ザキが仲間を集めてる」 「ふーん。あいつ仲間なんていたのか」 「烏合の衆だけどね。あいつの口車に乗せられる頭の悪い奴もいるって事だよ。個々の戦力は大したことないだろうけど、どれだけ数が集まるかは分からない。明日あさってあたり、ヤバイかもしれないね」 ジンは難しい表情で腕を組み、黙り込んだ。クルミは再びおずおずとライに問いかける。 「ザキって、ゆうべの獣ですか?」 「えぇ。ジンを倒してクルミ様を奪おうと考えているようです」 笑顔でサラッと肯定されて、背筋が一層冷たく感じる。ジンがおもむろにライに尋ねた。 「おまえ、動けるか?」 ライはニッと笑って片目を閉じた。 「そう言うと思って、少し早いけどカイト様には暇を頂いたよ。元々約束の日までの契約だったしね」 約束の日は三日後に迫っているらしい。 |
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