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17.黒い獣




 クルミは窓を閉じて再びベッドの縁に腰を下ろした。ザキの襲撃に備えて、ライはそのまま屋敷内にとどまる事になった。
 兄の秘書は辞めてしまったので、ここにいる事が知られてはまずい。というわけでジンの部屋にいてもらう事になったのだ。ライはジンと同等くらいの能力があるらしい。
 母はゆうべの騒ぎの心労で朝から伏せっている。しばらくはジンの部屋に来る事もないだろう。
 元々病弱な母は部屋に閉じこもりがちで、同じ家に住んでいながらクルミ自身あまり顔を合わせる事もなかった。
 突然、前触れもなく窓が開いた。クルミは反射的に立ち上がる。カーテンをよけてジンがヒラリと部屋に入ってきた。
 窓を閉めながらジンが独り言のように言う。
「本当は約束の日まで待つつもりだったが、悠長に構えている場合じゃなくなった。今すぐ力が欲しい」
 カーテンを引いてこちらを向いたジンが、クルミを真っ直ぐに見つめる。
「今夜、あんたの全てをよこせ」
 ドキリと鼓動が跳ねて、クルミは咄嗟に寝間着の胸元を掴んだ。
 全てを捧げると自分で言っておきながら、いざとなるとためらってしまう。ジンの心がここにないから。
 怪力の獣に対抗するため、ジンは力を欲している。今のままでは、またケガを負わされるかもしれない。頭では分かっているのだが――。
 クルミが反応できずに立ち尽くしていると、ジンはクスリと笑った。そして思いもよらない事を尋ねた。
「あんた五年前の黒い獣を気にかけていただろう。どうしてだ?」
 話しても大丈夫だろうか。ジンはあの獣の話をすると、いつも不機嫌になった。
 また機嫌を損ねて乱暴な事をされたらと思うと怖い。けれどうまい言い訳も思いつかない。クルミは俯いて正直に告げた。
「もう一度会いたいと思っているんです」
「怖くないのか?」
「怖いけど、記憶に焼き付くほどきれいで忘れられません。触れてみたいと思いました」
「そうか」
 意外にもジンは怒り出す事もなく、静かにつぶやいただけだ。クルミが顔を上げると、ジンは穏やかに微笑んだ。
「昔話を聞かせてやろう」
 そして静かに語り始めた。



 五年前の黒い獣は、野心のかけらもない不抜けた奴だった。物心ついた頃から、ある程度の能力があり見た目が獣王に似ていたので、獣王の子だと噂されていた。
 本当のところは誰が誰の子かなんて、獣たちには分かっていない。生まれて間もなく母親から引き離され、子どもだけの集団で育てられるからだ。
 乳離れするまでは乳母役の女たちが子どもに乳を与える。人間と違い繁殖期が決まっているので、子どももほぼ同時に生まれた。
 子どもを産んだ女たちが乳母役になるが、自分の子を優遇する事はない。この時からすでに限られた乳を巡って弱肉強食は始まっている。乳にありつけない弱い子どもは死ぬしかない。
 獣の女は一度に複数の子を産む。そのため子どもの集団には似たもの同士がいるものだが、黒い獣は他の誰とも似ていなかった。それがまた、獣王が人の女に産ませた子ではないかとの憶測を呼んでいた。
 実際の所は分からない。前回の約束の日から八十年は経過していたし、獣王の元に人の女はいなかった。ただ獣王だけが人の女と交わる事が許されていた。
 乳離れした子どもは、知識も技能も体力も自分自身で獲得するしかない。大人たちは貪欲に欲する者に、より多くを与える。
 黒い獣は成長した後、獣王の城で働いていた。そこそこの能力があったので生活力もある。そのため女にも不自由していなかった。権力には興味がない。獣王の側近だの、今以上に上を目指す事に意味を見いだせなかった。
 一方、同時期に生まれたザキは野心の塊だった。体力と筋力は他の者より突出していて変身能力もあり人語も解する。能力的にはそれなりに優秀だが、直情的で気が荒い。
 獣王の近衛として働いていた事もあるが、乱暴が原因で解雇された。貪欲なまでに権力を欲し、いずれは獣王になると言ってはばからない。だが、その性格が災いして賛同者はほとんどいなかった。
 その日ザキは荒れていた。何日か前に極上の甘い香りに誘われて人の領地に侵入したところ、出会い頭に強烈な香水を鼻先に吹き付けられたらしい。
 獣は五感の中で嗅覚を一番頼りにしている。思い切り吸い込んでしまったようで、人の姿で酒をあおりながら「未だに酒の味もわからねぇ!」と管を巻いていた。
 なだめようとする者を八つ当たりで殴ったりする。元々性格が正反対で気が合わなかったが、黒い獣はザキのこういう所が大嫌いだった。
「いつかあの女を食ってやる」
 と物騒な事を言うので、どれだけバカなんだと呆れながらも「そんな事をすれば粛清されるぞ」とたしなめた。それが癇に障ったらしく、ザキは獣の姿に戻り黒い獣に襲いかかった。
 咄嗟の事でよけきれず、黒い獣は左足に大きな傷を負った。周りが総出でザキを押さえつけるも、力でザキにかなう者はいない。ひとりまたひとりと振り払われる。
 このままでは殺されてしまうと感じた黒い獣は、慌ててその場を逃げ出した。
 どこをどう逃げたのか、気付けば見知らぬ大きな屋敷の庭にいた。とりあえず身を隠そうと忍び込んだ部屋の中で、そこが人間の領地である事を初めて知った。
 部屋の中を満たす極上の甘い香り。ベッド上には香りの主がいた。
 その女との出会いにより、黒い獣の中に野心が芽生えた。
 五年以内に獣王になる。それが黒い獣の目標となった。能力を磨き周りの信頼を集め、着実に上を目指す。そして二年後には獣王の右腕となるまで登り詰めていた。
 ちょうどその頃、獣王が黒い獣にだけ退位をほのめかした。獣王はもう何十年も在位している。老いを自覚し始めていたらしい。
 正式に退位が宣言されれば、次の獣王は候補者で争われる事になる。ザキは間違いなく名乗りを上げるだろう。
 あいつと戦えば相打ちか勝っても深手を負う。それで終わればいいが他にも候補者が残っていたら太刀打ちできない。
 黒い獣は迷わず獣王との一騎打ち、獣王戦に挑み、これに勝利した。



「では、あの獣は今、獣王になっているんですか?」
 ジンは答えず、身につけているものを脱ぎ始めた。目のやり場に困ってクルミは俯いた。気まずい沈黙が続く。黙って立ち尽くすクルミに、ジンが命令した。
「あんたも脱げ」
 クルミは俯いたまま仕方なく寝間着のボタンに手をかけた。衣擦れの音と共にジンが言葉を続ける。
「あんたは間違いなく領内で最高の女だ。約束の日が来れば獣王に献上される」
「お父様が断ったら……」
「領主に拒否権はない。たとえ自分の身内でも獣王が指定した最高の女を差し出すのが決まりだ」
 衣擦れの音は止んでいた。クルミも全てのボタンを外し終えたものの、袖を抜くのをためらっていた。
「まだ思い出さないか?」
 顔を上げると一糸まとわぬジンがいた。華奢だと思っていたが、無駄な肉のない引き締まった身体にドキリとする。再び目を逸らそうとした時、ジンの身体が徐々に真っ黒な毛に覆われ始めた。
「獣王だけが人間の女を手に入れる事ができる。あんたを手に入れたいと思った」
 半人半獣となったジンは身体を折って床に両手両膝をつき更に変化を続ける。
「他の誰にも汚されたくない。だからオレは獣王になった。あんたを汚していいのはオレだけだ」
 そこに現れたのは、五年前にこの部屋に侵入した黒い獣だった。
 あれほど会いたいと願った美しい獣が目の前にいる。自然と胸が高鳴り、クルミは両手で口を覆った。
「ジン、あなたが……!」
 ビロードの光沢を放つ艶やかな毛並み。長いしっぽをゆらゆらと揺らし、金の瞳が真っ直ぐにクルミを見据える。
 獣は素早く跳躍し、クルミをベッドに押し倒した。五年前と同じようにグルグルとのどを鳴らしながら頬を舐め、はだけた胸の上で足踏みをする。
 肌に触れる毛並みがくすぐったくて、クルミはクスクス笑いながら獣の首に腕を回して抱きしめた。
 全て思い出した。五年前に立ち去る間際、黒い獣は一瞬人の姿でクルミに告げた。


―― 必ず迎えに来る ――


 あれは確かにジンだった。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
 半人半獣となったジンが目の前で意地悪く笑う。
「あんたが初めましてなんか言うからだ。きれいに忘れていただろう」
「あなたがそうしろと言ったんじゃないですか」
 ジンは自分の言葉を誰にも言うなと付け加えた。いっそ忘れていろと。
「本気で忘れる奴があるか」
 もしかして意地悪だったのは、忘れられていた事にすねていたから? そう思うとなんだかかわいい。けれどこんな事を言うと意地悪に拍車がかかりそうなので黙っておく事にする。
「あなたになら食べられてもかまわないと思ったの」
「ザキと一緒にするな。五年も待ったんだ。食って終わりじゃ、もったいない」
 クルミの寝間着をはぎ取りながら、ジンが尋ねた。
「どちらが好みだ?」
「どちらも。あなたが好きです」
「それでこそ獣王の妻にふさわしい」
 ジンはニヤリと笑い、クルミを抱きしめ口づけた。




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