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18.獣王の野望




 目を覚ますと傍らに黒い獣が眠っていた。組んだ前足の上に頭を乗せ、夜具の上で丸くなっている。
 五年前にはピリピリとした警戒心を全身にみなぎらせていた獣が、今は呆れるほど無防備にくつろいでいる。クルミは目を細めて、獣の背中をそっと撫でた。
 もう一度会いたいと思っていた。それが叶うなら食べられてもかまわないと。
 その獣にこうして出会い、なめらかな毛並みに手を触れ、抱きしめて、夜を共に過ごした。
 ジンが獣だと分かっても、交わる事にためらいはなかった。ためらっていたのは、ジンの心が誰にも捕らわれていないと思っていたから。
 けれど彼は、五年もの間執着とも言えるほど、クルミを欲していた。それが分かった途端、ためらいは消えた。
 手触りの心地よさに飽きる事なく背中を撫でていると、黒い獣は耳をピクピクと震わせた。少ししてのどを小さく鳴らし始めた。目を覚ましたのかもしれない。
 クルミに撫でられても嫌がる事なく、しっぽの先だけをゆっくりと上下に振っている。外は次第に明るくなってきた。
 もう少しだけこの感触と温もりに浸っていたくて、クルミは獣の身体に頬を寄せた。獣は顔を上げ、クルミの頬をペロリと舐めた。そしてごそごそと夜具の中に潜り込んでいく。
 身体に沿うようにして奥に入っていくので、毛並みが肌を撫で、クルミは笑い声を上げた。
「やだ、くすぐったい」
 奥で反転した獣は、身体の上にのしかかった。足や腹をペロペロと舐められ、クルミはたまらず笑い転げる。
 逃れようと身をよじった時、いきなり胸を掴まれた。
「きゃあっ!」
 思わず悲鳴を上げると、目の前にジンが顔を出した。
「色気のない声を出すな」
「突然人にならないでください」
「獣の方がいいのか? 次からはそうしてやる」
 意地悪な笑みを浮かべて、ジンはクルミに口づけた。
 相変わらず口を開かなければいいのにと思う。獣の時はあんなに素直でかわいいのに。けれど人の姿をしたジンにはドキドキする。
 徐々に熱を帯びていくキスに合わせて、クルミの鼓動も早くなっていく。
 少ししてジンは唇を離した。
「もう一度、と言いたいところだが、そろそろ仕事に戻ろう。続きは全てのケリがついてからだ」
 名残惜しそうにもう一度軽く口づけて、ジンはベッドを下りた。そしてゆうべ脱ぎ散らかした服を身につけ始める。ジンが背中を向けている内に、クルミもベッドの側に放り投げられていた寝間着を拾って身につけた。
 身支度を調えたジンは、そのまま振り返る事なく窓から外へ出ていった。
 薄暗い部屋の中、一人残されたクルミは、ぼんやりとベッドの縁に腰掛ける。
 いつもとかわらない日常が戻ってきた。さっきまでここに黒い獣がいた事が夢だったのではないかと思える。夢だったとしても、あんな幸せな夢はない。
 いつも目覚める時間よりは少し早いが、熱いシャワーを浴びて目を覚まそう。
 今日を含めてあと三日、つまり約束の日が過ぎれば、庭に出てもいいと父が言った。庭に花や苺を植えて育ててみたいとクルミは楽しみにしていた。


 クルミがモモカに身支度を調えてもらっている間、ジンは朝食を持って自分の部屋に戻った。ライの分も考慮してコウがいつもより多めに都合してくれている。
 ジンが部屋に入ると、奥の寝室からライが顔を出した。完全な人型になってジンの寝間着を着ている。侯爵家で用意してくれた物だが、ジンは一度も袖を通した事がない。獣はよほどの事がない限り、人型のまま眠る事はないからだ。
 朝食の乗ったトレーをテーブルに置き、二人で並んでソファに座る。ジンが差し出したフォークを受け取り、ライがニヤニヤと笑った。
「朝帰りとはうらやましいね」
「いつもの事だ。明け方までクルミの部屋を警護している」
「ゆうべはそれだけじゃないだろう? 君の匂いが変化しているよ」
「分かっているなら訊くな」
 人の女と交わって能力を得た獣は、匂いに変化が現れる。獣同士ではすぐに分かるので、掟を破った者はすぐに発覚するのだ。
 ジンと同じ皿をつつきながら、ライがうらやましそうにため息をついた。
「いいなぁ、あんな極上の女。私もあやかりたいものだ」
「オレを倒して獣王になればいい」
「だから権力に興味はないって。それより君が何をするのか見ている方が楽しそうだしね」
 ジンは口の端に笑みを浮かべただけで、何も言わず食事を口に運んだ。
 そのまま二人は黙々と食事を続ける。少ししてライが低い声で尋ねた。
「何を考えているのかな?」
「何が?」
「ザキの事だよ。獣王戦を挑むならともかく、仲間を集めて奇襲をかけようとしているのに泳がせておくなんて。君が一声かければケリはつくんじゃないかな」
「この間まではそのつもりだった。粛清するのは簡単だか、あいつをオレの手で屈服させてやりたくなった」
 ニヤリと笑うジンに、ライは目を丸くした。
「屈服? 葬るんじゃなくて?」
「あぁ。バカとハサミは使いようだ。あいつの筋肉は充分に使い道がある」
 ライは楽しそうに目を輝かせる。
「へえぇ。やっぱりおもしろいね、君は。あいつの使い道を見届けたくなったよ」
 訊いても教えてくれないだろうと、ライはそれ以上何も訊かなかった。
 ジンが獣王になったのは、クルミを手に入れるのが目的だった。それは獣王になった時点で達成されたようなものだ。ジンが直接動かなくても、約束の日が来れば、誰かが献上してくれる。ライが以前言ったように、クルミ以上の女は領内にいない。
 クルミを誰にも汚されたくなかったジンは、侯爵家の動向とクルミの身辺を探るため、コウを潜り込ませた。領主は獣に家族を奪われた者に甘い。それを利用した。
 つかみ所のない性格だが、ライは社交的で情報収集能力に長けている。領主の創設した会社に潜り込ませ、領主の力量を見極めた。
 クルミに出会ってジンの中に芽生えた野心は留まるところを知らない。ジンの目は、獣社会のこれからを見据えていた。




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