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19.帰順




 朝食を終えたライは、獣の姿でジンの部屋を出て行った。ザキの動向を探るという。ジンはクルミの側に戻り、いつも通りの日常を過ごす。さすがに昼間から襲撃してくるほど、ザキもバカではないようだ。
 夜になり、クルミの部屋の前にたたずむジンの元にライが戻ってきた。
「難航しているみたいだよ。あいつ、人望ないから」
 ライは笑いながら告げた。
 結局その夜、ザキの襲撃はなかった。
 新しい朝を迎えた。ザキが動くなら今夜に間違いない。明日の朝、夜明けと共に獣王の城で最高の女が決定される。
 ボディガードとしてのジンの契約期間は明日の夜明けまでとなっていた。
 城には毎日のように、最高の女候補の情報が続々と寄せられているらしい。探してくれた者には悪いが、それは五年前からクルミに決定していた。
 いずれその労力に対しては、何らかの形で報いようとジンは思っていた。
 ライは朝食後、再び屋敷を出て行った。それを見送った後、ジンがクルミの部屋に向かっていると、モモカが領主の伝言を持ってきた。
 今日の学習は休ませる。明日の朝までできる限りクルミの側にいて彼女を守って欲しいと。
 領主は領内に頻出する獣対策で、相変わらず屋敷にいられないようだ。ジンは了承し、それをクルミに伝えた。
 領主は気付いていないようだが、一目で獣だと分かる者以外に、その倍くらいは人型の獣が領内で生活している。ジンが獣王になった三年前から、積極的に人と関わる事を推し進めてきたからだ。
 当然ながら女と交わったり食ったりするのは厳禁だが、それ以外の事は大概許していた。店を構えている者もいるらしい。
 クルミは家庭教師が来ない事を知ると、書棚から何冊も本を取り出した。それを持って部屋を出ようとする。
 どこに行くのか尋ねたら、リビングに行って読むと言う。どうしてわざわざそんな事をするのかわけが分からず、ジンは眉をひそめる。
「私はリビングで本を読んでいるから、あなたは休んで下さい。ゆうべも眠ってないし、今夜は特に大変なんでしょう?」
 どうやらジンを休ませようとしているらしい。リビングなら頻繁に人の出入りがあるし、頼めばモモカや侍女たちが一緒にいてくれるからだろう。
「あんたがリビングに行くならオレも行く。できる限り側にいるようにとの命だ」
 クルミは不満げに眉を寄せ、上目遣いにジンを睨んだ。少しして本を抱きしめ、意を決したように言う。
「では、ここで休んで下さい。私は側で本を読んでいます」
「は? 休んでたら側にいても守っているとは言えないだろう?」
「あなたと私の手を紐で繋いでおけば、何かあった時には飛び起きる事ができます」
 にっこりと微笑むクルミを、ジンは呆気にとられて見つめる。
 このお嬢様は、時々ジンには思いもよらない事を言い出す。そしてそんな時には決して退かない。
 ジンはフッと目を細め、クルミを寝室へ促した。
「絶対、側を離れるなよ」
「はい」
 寝室に入ったジンは、すぐさま着ているものを脱ぎ、獣の姿に戻った。ベッドの上に飛び乗り丸くなる。
 クルミはベッドの側まで椅子を持ってきて座った。ジンが外したネクタイを拾い、自分の手首とジンの前足を繋ぐ。そしてジンの頭から背中にかけて、ゆっくりと撫で始めた。
 クルミは獣の姿をしたジンを全く警戒しない。むしろ人の姿の方が警戒されている。普通は逆だろう。
 こうして身体を撫でられるのは、動物扱いされているような気がしないでもないが、クルミの手の感触は心地いい。
 無意識のうちに、ジンはのどを鳴らし始めた。そして程なく眠りの淵に沈んでいった。
 ハッとなってジンが目を開くと、もうすぐ昼食の時間だった。見るとベッドに縋るようにしてクルミが眠っている。
 一緒になって眠ってどうする。そう思ったジンは、クルミの頬をペロリと舐めた。
 クルミは反射的に悲鳴を上げて飛び起きた。人の姿になったジンは互いの手首を繋いだネクタイを掴んでクルミを引き寄せる。
 間近で見つめるクルミの目に緊張が走った。やはり人の姿の方が警戒されているようだ。
「あんたにこういう趣味があるとは意外だな」
 クルミは慌ててネクタイをほどき、ジンを突き放した。
「何か着て下さい」
 言われてみれば、確かに全裸だ。昼食の時間になれば、誰かがクルミを呼びに来る。人の姿で全裸はまずいだろう。ジンはベッドを下りて急いで服を身につけた。
 午後の時間はいつもと変わりなく過ぎ去り、最後の夜がやって来た。ジンはいつもより早めに庭に出た。
 空には傾きかけた細い月が浮かんでいる。風もなく辺りは不気味なほど静まりかえっていた。その静けさを打ち破り、芝を踏む音がせわしげにこちらに近づいてくる。ジンが注視する闇の中から現れたのはコウだった。
「ジン様、様子が変です」
「来たか。何があった?」
「警備員と連絡が取れません」
 屋敷を取り囲んでいる警備員が、誰ひとりとして無線に応答しなくなったらしい。
 屋敷から様子を見に行った使用人も消息を絶った。途方もなく広い庭だか、通い慣れた使用人が迷子になるほどではない。ザキが動いているとみて間違いないだろう。
 コウの後ろから今帰ってきたと思われるライが顔を出した。
「やばいぞ、ジン。屋敷の周り、警備員がバタバタ倒れてる」
「死んでいるのか?」
「いや。気を失っているだけのようだ」
 それを聞いてジンはホッと息をつく。殺人を犯したなら、ザキを屈服させる意味がない。
「救いようのないバカではなかったようだな」
 とにかくクルミの安全を確保するのが先決だ。また窓から顔を出して叫ばれても面倒だ。
「ポンタ、事情を説明して女たちを屋敷の中心に移動させろ。クルミと奥様が最優先だ。窓から遠ざけろ」
「わかりました。旦那様には?」
「オレから知らせる」
 コウは頷いて屋敷の中に駆け戻って行った。
 領主に知らせれば、銃を持った助っ人をすぐに手配してもらえるだろう。けれどザキを先に処分されては困る。
「向こうの規模は?」
「あいつを含めて五、六ってとこかな? いずれ劣らぬ筋肉精鋭部隊だよ」
 半人半獣のライが、頭の上の耳をピクピクさせながら、おどけたように言う。
「それくらいなら、なんとかなるか」
「敷地内か周辺に潜んでいるとは思うけど、どうやっておびき出す?」
「最高のエサを撒いてやる」
 ジンはニヤリと笑い、クルミの部屋の窓を開いた。すぐにクルミが顔を覗かせた。
 まだコウは来ていないようだ。事情を知らないクルミは緊張感のない表情で、ジンとライを不思議そうに見つめる。
 クルミ本人と部屋から流れ出した極上の甘い香りが、徐々に辺りを満たし始めた。
 ライはうっとりした表情で深呼吸と共にため息を漏らす。その時、一陣の風が庭木の枝をゴウッと揺らした。極上の甘い香りは風と共に巻き上げられ、辺りに拡散していく。
 ジンはクルミを抱き寄せ、素早く口づけた。
「あいつが来た。あんたは奥に隠れてろ。ポンタに従え」
「あなたも、どうかご無事で」
 クルミからのキスを受け取り、ジンは部屋の窓を閉じた。辺りは再び静けさに包まれる。
 少しして闇の中に小さな二つの光が見えた。金の光はまっすぐにジンを見つめている。極上の香りに導かれたザキの目だ。後ろにはいくつかの赤い光を従えていた。
 薄明かりの中に現れたザキは、全身に敵意をみなぎらせてジンを見据えた。ところがザキとは対照的に、後ろに従う者たちはジンの姿を目にして一様にうろたえている。後ろのひとりがコソコソとザキに問いかけた。
「おい、ザキ。おまえが言ってた気に入らない奴ってジンの事か?」
「あぁ」
 平然と返すザキに、後ろにいる四人は一層うろたえた。
「冗談じゃない。獣王が相手だとは聞いてないぞ」
「勝手に女と交わっているって、獣王なら問題ないだろう」
 すっかり浮き足だっているザキの背後に、ジンは声を上げて笑った。その隣でライもおどけたように肩をすくめてみせる。
 ザキは忌々しそうに顔を歪め、背後の者たちは一斉にジンに注目した。
 ジンは余裕の笑みを浮かべ、彼らに提案する。
「おまえたち、今下りるならザキに騙されていたという事で不問にしてやるぞ」
 背後の者たちはあっさりと掌を返した。
「オレは下りる。話が違う」
「オレもだ。獣王と争うつもりはない」
 次々に言い訳を口にしながら、彼らはザキの元を離れ、そそくさと闇の中に消えて行った。
 ザキは苛立たしげに歯がみする。
「ちっ! 腰抜けどもめ」
 益々顔を歪めて睨むザキに、ジンは静かに問いかけた。
「おまえはどうする? 下りないのか?」
「ふざけるな!」
 ジンは一呼吸置いて、ザキに尋ねた。
「おまえはどうして獣王になりたいんだ? 掟に縛られない自由が欲しいだけか?」
 何も言わずに睨み付けるザキを見つめて、ジンは続ける。
「それとも皆を従えて頂点に立ちたいだけか? 何も目的がないなら三日と持たないぞ。上辺だけの言葉や力でねじ伏せても誰も従わない。今、思い知っただろう?」
「おまえには目的があるというのか?」
「ある。オレは人社会との自然な交流を目指している」
 ジンが人と関わる事を推し進めてきたのはそのためだ。人にも獣にも互いに対して偏見がある。人と関わり人の文化や習慣を学ぶ事で、獣の人への理解を深めると共に、人には獣が動物とは違う事を理解してもらうのが目的だ。
 獣は人の女を食ったりしたが、食わなくても生きていける。人の女と交わる事も、互いに同意の上であれば、いずれは解禁するつもりだ。そして長年領主を苦悩させてきた百年に一度の密約も明日を最後に廃止する。
 話を聞いたザキは鼻で嘲笑った。
「そんな事してみろ。女と交わって力を得た奴に、おまえなんか簡単に王座を奪われてしまうぞ」
「オレが力だけで王座に就いていると思っているのか? おまえも人の社会で暮らしていたなら知っているだろう。人の王は力だけで民を従えているわけじゃない。オレがボディガードをしていたのは、領主の信頼を得てオレの話に聞く耳を持ってもらうためだ」
 感情の制御が不得手なだけで、元々頭の悪くないザキは動揺を隠せずにいる。それでもジンに同意するのが悔しいのか、力なく反論した。
「人との交流など、そんな絵空事……」
「もちろん簡単な事ではない。だがオレに従うならいずれはおまえの欲した自由を、おまえは手に入れる事ができる」
 すっかり敵意を失ったザキは黙ってジンを見据えた。
「オレに従え。おまえがオレに裏切られたと判断したなら遠慮なく牙をむくがいい」
 ザキは黙ったままジンに歩み寄り、足元に跪く。ジンはその横で片膝をついてしゃがみ、俯くザキのうなじに軽く牙を立てて噛みついた。




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