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20.約束の日




 夜明け前、父が屋敷に戻ってきた。今日は百年に一度の約束の日。
 夜明けと共に契約期間終了となったジンは、父にいとまの挨拶をする。てっきりその場で最高の女を指定するのかと思ったら何も告げずに、母やクルミにも軽く会釈をしただけで、あまりにもあっさりと屋敷を後にした。
 真夜中に怪力の獣が再びやって来た事をジンに告げられた。クルミと母、屋敷内の女たちは、ジンの指示でコウに誘導され一カ所に集められた。
 屋敷の中心にある窓のない部屋。父の書斎だ。普段なら勝手に入ればお咎めを受けるところだ。
 そんなわけで外で何が起きているのかさっぱり分からない。どれほど時間が経ったのか、女ばかりが不安に身を寄せ合っていると、外で見張っていたコウが扉を開いた。
 獣の脅威は去った。あの怪力の獣はジンが見事に帰順させたという。ライはそれを見届けて一足先に森へ帰ったらしい。
 朝の内に兄も帰ってきた。父と兄はこれから獣王の知らせを待つのだろう。母はゆうべの寝不足と心労のせいで今朝も伏せっている。父は今日も家庭教師の来訪を断ったらしい。
 てっきりクルミも部屋に下がっているように言われると思っていた。ところがリビングにいる二人に挨拶を済ませて部屋に戻ろうとしたクルミを父が呼び止めた。
「クルミ、長い間屋敷に閉じ込めてすまなかった。辛かっただろう」
「お父様が私を大切に思っての事だから。明日からは庭に出てもいいんですよね?」
 父は穏やかに微笑んで頷いた。
「あぁ。かまわないよ。カイトと一緒にパーティに行くのもいい」
「お兄様と?」
「そうだ。カイトの婚約者として」
「え……」
 そういえば、いずれそうなると兄が言っていた。
 ジンが正式に迎えに来てくれる事ばかりに気を取られていて、すっかり頭の中から抜け落ちていた。
 兄がソファから立ち上がり、クルミに歩み寄ってきた。優しく微笑んでクルミの頬に手を添える。
「クルミ、父さんが僕を認めてくれたよ。ようやく君を僕の花嫁にできる。子どもの頃から君だけを見てきた。これからも君だけを大切にするよ」
「お兄様……」
「お兄様じゃなく、これからは名前で呼んでおくれ」
 愛おしげに頬を撫でる手を振り払うように、クルミは激しく首を振った。
「お兄様。私……」
 ジンと交わった自分は、兄の花嫁になる資格がない。元より兄の事は兄としか思えなかった。それは今も変わらない。
 そして自分が生涯愛を捧げようと思ったのはジンなのだ。それを伝えなければ――。
 クルミが口を開きかけた時、扉がノックされモモカがやって来た。
「旦那様、サエキ=ジン様がお見えです」
「ジンが?」
 父は少し目を見開いた。早朝に別れたばかりなので無理もない。
「今日は先約がある。断ってくれ」
「それが、百年前から約束があると……」
「何?」
 父が慌てて腰を浮かせた。モモカは困惑した表情のまま、弾かれたように後ろを振り返る。
「あ、ジン様……!」
 モモカの横をすり抜けてジンが姿を現した。後ろにライを従えている。それを見て兄が驚いたように声をかけた。
「ライ、どうして君が?」
 どうやら兄はライの正体を知らないようだ。ライが答えるより先に、父が厳しく制した。
「カイト、話は後だ。モモカ、君は下がってくれ。私がいいと言うまで誰もこの部屋に入れるな」
「かしこまりました」
 モモカが頭を下げて出て行くと、父はクルミにも厳しい目を向ける。
「クルミ、悪いがおまえも……」
 そう言いかけた時、ジンが遮った。
「いいえ。お嬢様にはぜひご同席願いたく存じます」
 父の表情が驚愕と共に固まった。そしてよろよろと歩み寄りジンに縋る。
「まさか、クルミが……」
 上着の襟を掴まれたまま、ジンは黙って父を見下ろしている。父は俯いたまま力なくジンを叱責した。
「君が獣の血を引いているとは聞いていたが、獣王の使者だとは思わなかった。獣の被害に遭った気の毒な身の上だと思っていたのに」
 父はジンの事をコウと同じように、母親を獣に襲われたのだと思っていたようだ。
 コウにしてもそれは方便だったに違いない。ジンは静かに父の言葉を否定する。
「私は使者ではありません。私自身が現獣王です」
 父は顔を上げ、襟を掴んだ腕を引いてジンの顔を睨め付けた。
「私を欺いたのか?!」
「いいえ。告げなかっただけです」
「同じ事だろう! 知っていれば君を雇ったりしなかった!」
「だからです。私はなんとしてもお嬢様を他の獣から守りたかった。あなたの望む事は私の望む事でもあったのです」
 父はゆっくりと手を離した。けれど相変わらず鋭い視線をジンに向けていた。それを真っ直ぐに見据えてジンは続ける。
「人間には分からないでしょうが、お嬢様は並外れた強い香りをお持ちです。あなたの開発した香水でも消せないほどの。それはあなたも気付いていたのでしょう? だから獣の血を引く私を雇ったのではありませんか? 毒をもって毒を制す。身体機能や特殊能力では獣にかなわない、あなた方人間たちの常套手段です」
「卑怯だと言いたいのか?」
「いいえ。賢いやり方だと思います。獣同士で争わせておけば、人間に憎しみの矛先が向く事はありません。元々獣は同族に対する情も薄く、互いに争う事もよくあります。私自身、ボディガードの仕事を通じて掟に背いた者を始末する事にためらいも後悔もありませんでした」
 父は幾分表情を緩め、ジンに要求した。
「君が獣王であるという証は?」
 少し振り向いたジンに、後ろからライが封書を手渡した。受け取った封書をジンはそのまま父に差し出す。
「私にはそれが証になるという確証はありません。けれど前獣王から受け継いだ物はそれだけです」
 手にした封書を父は裏返した。上着の内ポケットから取り出した色あせた封書を同じように裏返して見比べている。
 封書は赤い蝋(ろう)で封印されていた。蝋の上には刻印が押されている。それを見比べているのだろう。
 父は頷いて封書を内ポケットに戻した。
「なるほど、本物だ。それならなぜ王たる君が、わざわざ住みにくいであろう人の社会に出て働いているんだね?」
「お嬢様をお守りするためです。そしてあなたの信頼を得るためです」
 ジンはクルミの側に来るために、一年以上前から人の社会でボディガードとして働いていた。
 娘の姿を人目から遠ざけ必死に隠そうとしている父は、いずれボディガードを雇うだろうと踏んでいた。ボディガートをしていれば、掟に背いた者はその場で自ら粛清できるし、名を上げれば父の目にも止まりやすくなる。
 狙い通り父に雇われたジンは、父の命に忠実に従う事で信頼を得る事になった。
「まんまと君の術中にはまったわけだな。だが君がクルミを指定すればそれで済むはずだ。私に拒否権はない。私の信頼を得る必要はないだろう?」
「あなたとの関係を今日限りで終わりにしたくなかったからです」
「どういう事だ? 何を考えている?」
「私は盟約や掟に縛られる事なく、人と獣が自由に交流できる世界の実現を目指しています。あなたの協力があれば可能であると判断しました」
 ジンの途方もない計画に、父は目を丸くして絶句する。ジンはフッと目を細めた。
「その話はいずれまた。あなたに興味がおありでしたら」
 すっかり警戒を解いた父は、まるで好奇心に捕らわれた少年のように目を輝かせてジンを見つめる。
「君はおもしろい奴だな。これほど知性と理性を兼ね備えた獣がいるとは初めて知ったよ」
「人が知らないだけで、案外多くの獣が知性を持っています。カイト様もご存じでは?」
 突然話を振られて、兄はジンの後ろに目を向ける。ライが人懐こい笑みを浮かべながら、頭の上に立てた獣耳をピクピクと振って見せた。
「君も獣だったのか」
 呆然とつぶやく兄を横目に、父は苦笑した。
「わかった。君ならクルミを悲惨な目に遭わせたりしないと信じよう」
 父の言葉に兄は焦ったように詰め寄った。
「ちょっと待って下さい、父さん。クルミは僕の……」
「諦めろカイト。獣王の指定に逆らう事はできない」
「だけど、それじゃクルミの意思は……!」
 なおも食い下がる兄に、父は冷たく言い放つ。
「残酷な話だが、これまで自分の意思で獣王の元に行った娘はいないはずだ。クルミだけ例外にはできない。それが代々この地を治めてきた侯爵家の背負うべき業だ」
 兄はそれ以上の言葉を飲み込み、悔しそうに唇を噛んだ。
 重苦しい沈黙が部屋の中に充満する。それを打ち破ってジンが口を開いた。
「カイト様のおっしゃる事はごもっともです。私は今後侯爵家とよりよい関係を築いていくためにも無理強いをしたくありません。ここはクルミお嬢様のご意思を尊重したいと存じます」
 意外な提案に父も兄も呆気にとられたようにジンを見つめる。
「本当にそれでいいのか?」
 父が問いかけると、ジンは笑みを浮かべて頷いた。
「えぇ。もちろん、クルミお嬢様が拒絶なさったとしても他の女を要求したりはいたしません」
「そういう事ならクルミに委ねよう」
 父はひとつ嘆息してクルミに告げた。
「クルミ、おまえが決めなさい」
 ジンに要求され父が黙って従うままに、彼の元へ行けばよいと考えていた。いきなり自分に選択権が委ねられ、クルミは困惑する。黙って視線を泳がせているクルミに兄が言う。
「クルミ、家のためとか考えなくていいから。君が望む通りに決めてかまわないんだよ」
 縋るような目に見つめられ、チクリと胸が痛んだ。答など最初から決まっているのに。
 兄から目を逸らし、ジンに視線を移す。彼は眼鏡の奥から穏やかな、けれど確信に満ちた目でクルミを静かに見つめていた。
 やっぱり意地悪だ。クルミが拒絶しない事を確信していながら、あえてクルミ自身に選ばせる。
 期待を裏切って困らせてやりたいとも思うが、そんなささやかな反抗心など容易に消し飛ぶほどに、ジンに求められている喜びの方が遙かに大きい。
 クルミは一度目を閉じて大きく息を吸い込み目を開いた。父と兄、そしてジンが一斉にクルミを見つめる。クルミは兄を真っ直ぐに見つめて告げた。
「ごめんなさい、お兄様。私はお兄様の花嫁にはなれません。お兄様の事は好きです。でも私が愛しているのはジンなの。私は私の意思でジンの元へ行きたいと思います」
「クルミ……」
 すっかり落胆した兄は、ガックリと肩を落として項垂れた。
 口の端を少し上げたジンが右手を差し出す。クルミはその手に自分の手を重ねて微笑んだ。重ねた手を引かれ、クルミはジンの前に一歩踏み出す。
 見上げるクルミとジンの視線が交わった。わずかに細められた琥珀色の瞳から熱い視線が降り注ぐ。
 クルミの手を胸の高さまで掲げて、ジンは恭しく宣誓した。
「私はクルミお嬢様を妻として、生涯愛し慈しむ事を誓います」
 少し身をかがめてジンはクルミの指に口づけた。




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