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エピローグ




 降り注ぐ木漏れ日を見上げて、クルミは眩しさに目を細めた。庭に出るのは何年ぶりだろう。父の許しが出たので、クルミは翌日庭に出た。
 約束の日のやり取りが終了した後、ジンは一旦森へ帰った。後日改めてクルミを迎えに来るという。
 ライは兄に請われて秘書に戻る事になったらしい。ライが辞めた後、なかなか後任が見つからず、席が空いたままになっていたからだ。獣だと分かっても、ライの才能を兄は認めているのだろう。
 ジンがいつ来るのかは聞いていない。しばらく家にいるなら、やはり予定通り庭で花を育ててみたいと思った。
 いつもは窓越しに眺めるだけだった庭を歩きながら眺める。視線の先で花壇に水をやっているコウを見つけた。
 側まで行くと、彼は笑いながら声をかけてきた。
「クルミ様、お散歩ですか?」
「うん」
 コウはジンの命でクルミの身辺を監視するために屋敷へやって来たらしい。父たちはそれを知らないが、クルミはジンから聞いていた。
 クルミがジンの元へ行く事になり、役目は終わったはずだ。
「コウは森へ帰らないの?」
「ジン様にお願いして、もう少しここで働く事にしました。クルミ様のお側にお仕えしたいのは山々なんですが、オレは庭師としても調理師としても、まだまだ未熟です。城で働くにも人社会で働くにも、もう少し学んでからにしようと思いました」
「そう。頑張ってね」
「はい」
 コウは満面の笑みで頷いた。彼もジンが思い描く未来を担う一員のようだ。
 クルミが立ち去ろうとした時、コウが思い出したように告げた。
「さっき奥様が東屋にいらっしゃいましたよ。今日は体調がよろしいみたいです」
「ありがとう。行ってみるわ」
 母にはまだジンの元へ行く事を話していない。父から伝わっているかもしれないが、自分で伝えたかった。それにジンに対する母の気持ちを確かめたいと思っていた。本当は訊いてはいけない事なのかもしれないけれど――。
 きれいに刈り込まれた低い庭木の通路を進む。その先に四本の丸い柱に支えられた、三角屋根の白い東屋が見えてきた。
 屋根の下に置かれた椅子のひとつに母が腰掛けている。ゆったりとしたドレスを身にまとい、ひざの上には折り畳んだ白い日傘を乗せていた。
 艶やかな金の髪を後ろで小さく丸めて、透き通るような白い肌は確かにいつもより幾分血色がいいようだ。クルミと同じ緑の瞳は、右手の池をぼんやりと眺めていた。
 普段の母はクルミの目にも美しく儚げで、あの日ジンの寝室で見た姿が幻だったのではないかとさえ思える。
「お母様、おかげんはいかがですか?」
 クルミが声をかけると、母はこちらを向いてふわりと微笑んだ。
「今日は随分いいわ。あの人が具合のいい時はなるべく外の空気に触れた方がいいって言ったからお散歩してたの」
 母は父の言う事には従順で、反論する事すらクルミは目にした事がない。病弱で寝込む事の多い母とはあまり話をした事がないが、父の話をする時の母はとても楽しげで幸せそうに見えた。
 だからこそ、父への裏切りとも思えるあの日の姿が意外だった。
 クルミは母の隣に腰掛けた。母はクルミを見つめて穏やかに微笑む。
「あなたとお話をするのは久しぶりね」
「えぇ。もっと色々お話ししたいのに、私、ジンの元へ行く事になったの」
「そのようね。あの人から聞いたわ」
 やはり父から知らされていたようだ。あらかじめ知っていたからか、全く動揺する事なく母は祝福の言葉を口にする。クルミが自ら望んでジンの元へ行く事も聞いているようだ。
「ゆうべはあの人とたくさんお話をしたの。これからはもう少し家にいる時間が多くなるって言ってたわ」
 そう言って母は、少女のように嬉しそうな笑顔を見せた。ジンの事など眼中にないように感じる。クルミの伴侶に決まったから、きっぱり見切りをつけたのだろうか。なんとなく胸がモヤモヤして、クルミは思い切って尋ねた。
「お母様はジンを愛していたのでは?」
 母の顔から一瞬表情が消えた。けれどすぐに穏やかな笑顔が戻った。
「……知っていたの?」
 クルミは黙って頷く。母も小さく頷いて言葉を続けた。
「愛していたわけじゃないわ。私が愛しているのは子どもの頃からあの人だけ。だからずっとひとりでいるのが辛くて、寂しくて、ひとときでいいから温もりが欲しかったの。ごめんなさいね。あなたがジンを愛しているとは知らなかったから」
 最初はクルミの学習時間に、休憩中のジンに話し相手をしてもらっていたらしい。
 本来なら睡眠に当てるはずの時間なのに、ジンは嫌な顔ひとつ見せずに母の相手をしてくれた。その厚意に甘えて何度か話し相手をしてもらううちに、母の方から誘った。ジンには愛情が欲しいなら与える事はできないと言われたそうだ。
「ジンは優しい人ね。あなたたちはきっと幸せになるわ。あなたには望む人と一緒になってほしかったの」
 両親は親同士の取り決めで、幼い頃から結婚が決まっていたらしい。貴族同士の結婚はどこもそんなものだ。
「お母様は幸せじゃないの?」
「幸せよ」
 言い淀む事なく答える母の笑顔に偽りはない。父の話をする時はいつもこの笑顔だった。
「子どもの頃から大好きだったあの人と結婚して、あなたを授かって、そのあなたが幸せを手に入れたんですもの。こんな幸せな事はないわ。残念なのはあの人のために跡取りを生めなかった事だけね。あなたには弟がいたのよ。私の身体が弱いから産んであげられなかったの」
 母はどうしても産みたいと言い張ったが、父が許さなかった。その理由をゆうべ初めて母は聞いたらしい。子どもか母か、命の選択を迫られ、父は母の命を優先した。子どもはかわいそうだが、母が生きていればまた産む事はできると。
 結果的に母はそれが元で二度と子どもが産めなくなった。
「それでも役目を果たせなかった私をあの人は今でも側に置いてくれる。そんな優しいあの人に、私は酷い事をしたのね。ジンとの事は後悔したわ。時々ひとりぼっちで寂しい事もあるけど、もう二度とあの人を悲しませるような事はしない。あの人と話ができるだけで私は幸せだから」
 母は子どもの頃から今まで、そしてこれからも、父に恋をしている。少女のように嬉しそうな笑みを浮かべ、父の事を語る母は本当に幸せそうだ。
 自分もこの人のように、ずっと変わらずジンを想い続けたい。
「お母様……」
 クルミは思わず母の首に腕を回して抱きついた。背中をポンポン叩きながら、母はクルミの髪を撫でた。
「あらあら、もうすぐお嫁に行くのに甘えんぼさんね」
「私、お母様のように幸せになるわ」
「えぇ、きっとよ」
 あの日ジンから漂った母の香りが鼻をくすぐる。今はそれが不安ではなく幸せの香りのような気がした。



 結局その日のうちにジンは迎えに来なかった。約束の日を終え、今後の事で色々と忙しいのかもしれない。なにしろ彼は王なのだ。
 今日は庭を散歩しただけだったが、明日はコウに手ほどきを受けて花の世話をしてみようとクルミは思った。
 灯りを消して横になったと同時に、寝室の窓がコツコツと音を立てた。反射的にクルミは身体を起こす。月明かりに白く浮き上がった窓に見慣れた影があった。
 ベッドから下りて裸足のまま駆け寄り窓を開く。クルミが声をかけるより先に、ジンはクルミを抱き寄せ口づけた。クルミは観念して目を閉じ、それに応える。
 少しして唇を離したジンが早口で告げた。
「迎えに来た。行くぞ」
「え? 今から?」
「当たり前だ。来ると言っておいただろう」
 当然とばかりに言い切るジンに、少し呆れる。よく見るとジンは下半身が黒い毛に覆われた半人半獣の姿だった。よほど急いで来たらしい。
 まさかこんな深夜にやって来るとは思わなかった。父も母もすでに床についているはずだ。
「お父様とお母様に黙って行くわけにはいかないわ」
「許可なら約束の日に済ませた。領主はいつでもいいと言っていた。あんたはもうオレの妻だ。俺が連れて行くのに問題はない」
 こんな風にいきなり連れて行く事を本当に父が許したかは甚だ疑問だが、自信満々のジンを説得できる気がしない。
「じゃあ、書き置きをさせて下さい。あなたが連れて行った事が分かるように。何も言わずにいなくなったらみんなが心配するでしょう?」
 ジンが渋々了承したので、クルミはベッドのサイドテーブルに書き置きをした。
「着替えるので少し待って下さい」
 窓を閉めようとした腕を掴んで引かれ、クルミは窓枠にもう一方の手をついた。
「そのままでいい」
「だって、外に出るのに……」
「オレの背中に乗せて行く。城の奴らも大半は眠っている。人目にはつかない」
 何をそんなに急いでいるのか分からないが、やはり説得できそうにない。クルミは大きくため息をついて、ジンに手を借りながら窓から庭に下りた。
 素足の裏に芝の感触がチクチクする。裸足で外に出たのは初めてだ。
 ジンは首からぶら下げていた小さな革袋から何かを取りだし、クルミに差し出した。
「これをあんたにやろう。あんたの香りは強烈だからな。他の奴らが変な気を起こさないように、オレの女だという証だ」
 広げたジンの掌には小指の先ほどの丸い石がついたピアスがひとつ乗っていた。
 丸い石はジンの瞳に似て、琥珀色にも緑色にも見える。中心に白い光の筋が入っていた。
「私、ピアスはつけた事ないんですけど」
「オレがつけてやる。向こうを向け」
 言われるままに身体をひねる。左の耳たぶにチクリとピアスの先端が当てられた。
 耳元でジンが囁く。
「少し痛いぞ」
 その直後、耳たぶにズキンと激痛が走った。痛みは脈に合わせてズキズキと断続的に繰り返す。少しどころではない痛みに、無意識に涙が滲んできた。
「痛い……」
 ジンはクルミを抱き寄せ、ピアスごと耳たぶを口に含んだ。ピアスと耳たぶの隙間に舌を差し入れ、丹念に傷口を舐める。
 やがて痛みは遠退き、背筋にゾクゾクと別の感覚が走り始めた。ジンの唇はいつの間にか耳たぶから首筋に移動していた。
 首筋を挟むように唇ではむはむされた後、ザラつく舌が首筋を下から上へ大きくひと舐めした。
「きゃっ!」
 思わず声を上げて身を固くする。耳元でジンが意地悪に囁いた。
「やはりあんたの血は極上だな。続きは城へ帰ってからだ。今夜は眠れると思うなよ」
 クルミのまぶたに口づけ、ちゃっかり涙をぬぐったジンは、地面に両手をついて変化を始めた。
「走るから、オレの背に跨がってしっかり掴まっていろよ」
 獣の姿でどこを走って屋敷から出て行くつもりだろうか。ライがコウに手引きされたような獣の抜け道を通られたら、しっかり掴まっていても落とされてしまいそうな気がする。
「どこから帰るんですか?」
「正門に決まっているだろう。領主には許可を得ていると言ったはずだ」
 それだけ言うと、ジンは黒い獣になっていた。獣の姿では言葉が話せない。
 クルミは言われた通りに寝間着の裾をすこし持ち上げて、ジンの背中に跨がった。
 そのまま身体を倒してジンの首に腕を回す。しっかり掴まれと言われたので、両手の指を組み合わせた。
 クルミを背中に乗せたまま、ジンはゆっくりと駆け出した。芝生の広場を斜めに突っ切り、庭木で作られた狭い通路を縫うように走る。
 しっかり掴まっていても振り落とされそうで、クルミはジンの背に顔を伏せて目を閉じた。
 耳に聞こえるのはジンが芝を蹴る足音と、身体を撫でる風の音。その風圧で庭木が揺れる葉擦れの音。
 少しして広い空間に抜けたようで、音が消え、ジンが速度を緩めた。クルミはゆっくりと目を開き、少し顔を上げて辺りを見回す。
 そこは玄関から正門へと続く大通りの途中だった。通りの両脇には小さな灯りが正門まで真っ直ぐに並んでいた。普段はもっと高い位置にいくつかガス灯がついているだけだ。
 すぐ脇にある灯りに目をやると、ガラスの器に入ったろうそくの灯りを使用人たちが、ひとつづつ掲げている事が分かった。
 クルミと目が合った侍女が笑顔を浮かべて手を振った。灯りの並ぶ通りを弾むような足取りで、ジンはゆっくりと進んでいく。すれ違う使用人たちが、次々にクルミに手を振ったり頭を下げたりした。
(嘘つき! 思い切り人目についてる)
 そう思ったが、獣王の生贄ではなく花嫁として、皆が祝福して送り出してくれている。それが嬉しくて涙があふれた。
 父がジンの事を認め、偏見を捨てて獣と付き合っていく事を示したのだろう。
 クルミはジンの背中で少しだけ身体を起こし、手を振る代わりに笑顔で頷いた。
 やがて正門が近づいてきた時、モモカの姿が見えた。彼女は満面の笑顔を湛え、ひときわ大きく手を振る。
 そして正門では両親と兄が待っていた。ジンが近づいてくると、三人は脇によけて道を空けた。ジンは会釈をするように深く頭を下げた後、正門をくぐった。
 クルミはそっと振り返る。正門の前に並んだ家族が、微笑みながらクルミに手を振った。少しだけ手を離して、クルミは三人に手を振り返す。
 屋敷が次第に遠ざかり、やがて人の姿も闇に紛れていった。クルミは前を向いて空を見上げた。
 雲ひとつない夜空に浮かぶ、半分より少し細い月が西へ傾きかけていた。先ほどと同じようにジンの背中に身体をつけて、首に回した両手の指を組む。それを合図にジンの走りが加速した。
 風を切り飛ぶように目指す行く手には、月明かりに黒く浮き立つ広大な森が待ち構えていた。



(完)




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