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史 跡
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・04/03/25
「旧大坂新町」関連記念碑追加
 
近松ゆかりの地へ
夕霧太夫の墓 所在地:
浄国寺:大阪市天王寺区下寺町1丁目
新町遊郭跡:大阪市西区新町1丁目
夕霧太夫は大坂新町扇屋四郎兵衛の抱えの太夫で、日本三太夫の一人として、江戸の高尾、京の吉野と並び評され、1678年(延宝6年)正月27歳の若さで没した。
 近松門左衛門の『夕霧名残り正月』、『夕霧七年忌』(歌舞伎)、『夕霧阿波鳴渡』(人形浄瑠璃)や井原西鶴の『好色一代男』に取り上げられた。
 夕霧太夫の墓はこの浄国寺の外に、生地といわれる京都嵯峨清涼寺を始め、徳島や和歌山にも存在するとのことである。
『夕霧阿波鳴渡』:1712年(正徳2年)初演。名妓夕霧と藤屋伊佐衛門との悲恋及びその児をめぐる悲劇を描く。上の巻「吉田屋の段」が名高く、改作の「郭文章」は歌舞伎にも上演されている。

浄国寺 夕霧の墓のある浄国寺は、生国魂神社の裏手、松屋町筋に面してある。
浄国寺は1565年(永禄8年)に創建された、浄土宗知恩院派の古寺で、夕霧太夫の墓のほかには、江戸後期の俳人・升屋六兵衛(升六)の墓もある。
夕霧の墓の正面には「花岳芳春信女」と刻み、裏面には『延宝6亥午年正月6日俗名あふぎや夕ぎり』とある。
右側には『日人誤破之 一花一水 則病既退 文久三年(1863年)七月再興之』と再建立の由来が記され、左側には鬼貫の句『此塚に 柳なくとも あわれ也』が刻まれ,その下に夕霧墓とある。この句は夕霧没後11年の1688年(元禄元年)に鬼貫が墓に詣でて詠んだもの。
夕霧太夫の墓
新町遊郭へ通路の新町橋
新町橋跡

大阪市西区新町1丁目「阪神高速1号線」高架下にある「新町橋」の記念碑。大坂市内側から新町遊所への
唯一の通路であったとこから「ひょうたん橋」とも呼ばれていたとのことである

新町9軒夜桜
 大阪市西区新町1丁目「新町北公園
 」にある「九軒町の夜桜」の碑。
 ここは1819年(文政2年)、当時
 大坂唯一の公認遊所のあったこの
 地に植えられた桜は、「浪速名所図
 会」にも紹介され有名であった。

史跡-018/TTL-136

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