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所在地:大阪市中央区千日前2丁目
最寄駅:地下鉄、近鉄、南海「難波)下車、千日前交差点から千日前通りを東へ約100M |
安井(成安)道頓・安井道卜の墓は「三津寺の墓地」にある。といってもこの墓はどうも、道頓・道卜の墓ではないらしい。
墓は正面に道頓・道卜両名の名前が彫られている合葬の形をとっており、墓石の向かって右手の側面には『慶長19寅5月7日戦死 安井定延墓』とあり、左の側面には『寛文元丑10月17日臨終 安井定延墓』 とあった。背面にも文字が彫られていたが判読出来なかった。
二人の没年は、道頓は大坂夏の陣に参加し、1615年(慶長20年/元和元年)5月7日大坂城内で戦死しており、一方の道卜は1661年(寛文元年)10月に亡くなったと言うのが、色々な資料からも明らかである。
道頓の命日の日付とは丁度1年のずれがあり、墓自体はかなり後から建てられたようだ。
また、墓石にはそれぞれの名前に「贈従5位」と彫られている。[「従5位」を贈られたのは1914年(大正3年)である]
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後日読む機会があった、牧 英正著「道頓堀裁判」(岩波新書)で、「誰の墓」かの問題は一つの結論を出しておられるので、紹介しておきたい。
墓石の背面の文字は牧氏も判読出来なかったが、『大阪訪碑録』(浪速叢書)には背面の文字が記載されており、これには[『覚寿院圭山清卜居士 寛延元戊辰(1748年)4月29日』とあり]、「清卜」とは本名 安井九兵衛定延のことで、安井九兵衛道卜から数えて4代目にあたる人である。しかも[墓石は四周の枠で囲ってあった。]とのことである。
これゆえ、『この墓は現在背面となっている方が正面で、墓石に刻まれている「九兵衛清卜」のために建てられたものと考えた方が妥当性がある。また、「贈従5位」については1914年(大正3年)以降の追刻である。』と言うのが牧氏の見解であった。
何故反対に向け、建てられているのか?、道頓・道卜の名前をがどうして刻まれているのか?これらの疑問については、今後の新たな資料の発掘を待つ必要があるようだ。尚、安井道卜や安井清卜の位牌は「三津寺」に安置されているとのことである。
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[参考資料] 『道頓堀裁判』 牧 英正著 岩波新書 |
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「三津寺墓地」は北側は「千日前通」に面した千日前の繁華街の一角にある。かっては大阪最大の墓地と言われた旧千日墓地の面影をちょっとだけ、とどめている。
1874年(明治7年)、天王寺村に埋葬地が新設され(現在の阿倍野墓地)、千日墓地は廃止されている。 |
墓は墓地の一番奥まったところにある。左側の墓石が道頓・道卜の墓
墓石には
「贈従五位 安井道頓居士」・
「贈従五位 安井道卜居士」と両名の名前が刻まれている。 |
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八尾市久宝寺3丁目の「八尾まちなみセンター」の中庭に建てられている「道頓・道卜生誕地碑」。
碑文は『贈従五位 安井道頓 道卜生誕地』となっている。この碑は1914年(大正3年)に道頓・道卜に贈位されたのを記念して安井氏の傍系の子孫が建立したもの。
久宝寺の近くの民家の庭に建っていたのを、「まちなみセンター」が出来たのを機に当地に移したとの事。
日本橋にある顕彰碑や上記の墓と同様、道頓・道卜は一族として取扱われているが、現地の解説板では、成井道頓説も紹介している。 |