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有名人・文化人墓所
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植村文楽軒の墓 所在地:大阪市天王寺区下寺町2丁目「円成院」
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、愛染坂を下る。
松屋町筋に面してある。
人形浄瑠璃のことを「文楽」というが、これは初代植村文楽軒が、江戸時代後期・寛政のころ(1789〜1801年)に大坂は高津橋南詰西側の浜辺で、浄瑠璃の稽古場を開き、その後、文化2年頃(1805年)人形浄瑠璃の小屋を設けたことに由来し、これが後の文楽座の始まりとされる。
 初代植村文楽軒は淡路島の人で、本名は正井嘉兵衛。13歳頃から伝統ある淡路浄瑠璃の花形で、中国筋を巡業し、名声を博したといわれる。1810年(文化7年)没。
 博労町稲荷境内(難波神社摂社)で興行を行ったのは、2代目文楽軒で初代文楽軒の妻テルの甥正井貞蔵が継いだ。
 正式に「文楽座」を名乗ったのは、3代目文楽軒が1872年(明治5年)大阪府の要請で、松島新地に劇場を新築し、これを機に文楽座と改称したのが始まりである。
3代目文楽軒は本名正井大蔵といい、1813年(文化10年)生まれ。2代目貞蔵の子供で、天保の改革で宮芝居が禁止され、各地を転々とし、1856年(安政3年)にようやく博労町稲荷の旧地に戻り、活動拠点とし、太夫たちの育成につとめた。1813年(明治20年)75歳で没した。
この3代目文楽軒は系譜上4代目になり、系譜上の3代目は2代目貞蔵の姉ツルの甥、清六が2代目の死後養子になったと伝えられるが、一般的には大蔵が「文楽中興の祖三代文楽翁」として知られる。
参考資料とした『大阪人物辞典』にはこの3代目文楽軒を2代目として表記している。お寺の方に確認したところ、この碑の人物は4代目とするのが正しいということであったが、通称に従った。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
円成院入口 遊行寺(円成院)の入口に建つ「植村文楽軒墓所」の碑。
また、ここには1694年(元禄7年)51歳で没した芭蕉の供養墓がある。
初代文楽軒の墓。墓の1部は破損している。
夫婦墓で、上段中央に「先祖累代」右に「 釈樂徹」
左に「釈眇教」。下段には「正井氏」と彫られている。
初代文楽軒の墓
3世文楽軒の顕彰碑
境内の墓地の一角に3代目文楽軒を称えた「文楽翁之碑」が建っている。寺院の塀越しに通りからも見える、非常に大きな碑である。


3世文楽軒顕彰碑側面




 側面の碑文を読むには
 外に出て、塀の外から
 でないと読めない。

文化人墓-36/TTL-378

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