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五井持軒・蘭洲 五井持軒の墓
所在地:大阪市北区同心1丁目町 九品寺

五井蘭洲の墓
所在地:大阪市天王寺区上本町4丁目 実相寺
五井持軒は江戸中・前期の儒者。1641年(寛永18年)大坂に生まれた。名は守任、通称加助、持軒は号。五井家は大和国の出身で持軒の祖父守香の代に大阪に移住している。
 1655年(明暦元年)京に上り、向井元升中島長安に学び医術で身を立てようとしたが、ある女性患者の診断を誤り、自責の念を募り、儒学に転じた。その後は中村タ斎に師事、伊藤仁斎東涯貝原益軒松下見宜らとも広く交遊し、10数年を得て大阪に戻った。
 北鍋屋町で塾を開き、四書(「大学」、「中庸」、「論語」、「孟子」)の教授1本に打ち込んだので、世間では「四書屋加助」と呼んだ。晩年、下河辺長流に和学を学び、『校注日本紀』を著している。
50過ぎ頃からの貧乏暮らしは、清貧に甘んじるどころではなかった。大坂に於ける儒学草創期、町人学問の創始期の大儒者であったが、貧窮のうち1721年(享保6年)81歳で世を去った。
墓は九品寺(北区同心1丁目)にある。

 五井蘭洲は1697年(元禄10年)持軒の3男に生まれる。名は純禎、字は子祥、通称藤九郎、号は蘭洲、冽庵、梅塢。五井家は父持軒の生き様が災いし、極めて貧しく、蘭洲は尼崎や信州の親戚に預けられ、転々とし、15歳で大坂に戻るが、赤貧洗うが如しの生活は変わらない状態であった。
  20歳の時に京都・古義堂の伊藤東涯に入門。1726年(享保11年)懐徳堂の中井甃庵に招かれて助教となるが、翌年江戸に下り、やがて服部南郭と並び称せられる儒学者となる。
 江戸在住中に一時津軽藩に仕えたが、1740年(元文5年)に病気を理由に離藩して大坂に戻る。
以後、甃庵を補佐し、助教として終生懐徳堂の教育を支えた。その学問は朱子学を主とし、当時学界は復古学が流行していたがこれを批判し、荻生徂徠とも厳しく渡り合った。
 甃庵の子の竹山履軒は、帰坂後の蘭洲から厳しい薫陶を受け、懐徳堂を背負って立つ人材に育った。晩年中風に罹り、1762年(宝暦12年)66歳で没した。墓は実相寺(天王寺区上本町4丁目)にある。
[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社

北区九品寺に建つ五井持軒の墓
九品寺全景 五井持軒のある九品寺の山門と本堂。

五井持軒の墓。墓は伊藤長胤の撰による、顕彰文がぎっしりと刻まれている。
五井持軒の墓正面
 五井持軒の墓 側面と裏面

中央区実相寺に建つ五井蘭州の墓
実相寺山門 五井蘭州の墓がある実相寺の山門。
上町筋に面してある。

五井蘭州の墓。墓のデザインは父持軒のものと殆ど同じ、周りに中井積善(竹山)の顕彰文が刻まれている。
 五井蘭洲の墓正面
 五井蘭洲の墓 側面と裏面

実相寺の墓 この五井蘭州の墓のある一角には、有名人の墓が並んでいる。
左側より、蘭州、入江育斎、椀久・松山の墓。

また、実相寺には住友一族の墓がある。

文化人墓-045/TTL-470

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