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有名人・文化人墓所
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中井利安の墓 所在地:大阪市天王寺区下寺町1丁目 光明寺
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、学園坂を下る。
松屋町筋を北へ、右手にある。
中井利安は1751年(宝暦元年)京都五条の商家の家に生まれている。本姓は安藤氏。名は利安、号酔亭。通称斧屋市郎右衛門。 幼時に中井家の養子となる。石田梅岩の高弟手島堵庵に師事し石門心学を学び、家業を弟に譲り学問所「修正舎」を開き、心学を代講する。
 1788年(天明8年)京都に大火があり、「修正舎」も罹災し、大坂の心学同好者の勧めもあり、その招きに応じ、大坂に移住。雑魚場(現西区)に大坂心学5舎の1つ「静安舎」を建て、商家の子弟の教育に努めた。利安の人徳もあり、「明誠舎」と並ぶ重きをなし、舎生も増加したため、1790年(寛政2年)阿波橋西に新舎屋を設け移転した。
 利安は日夜奮励、平日は毎日早朝から五経を講じ、僅かな秋時間には子供達を集め、読み書き算盤を教えている。利安は過労が災いしたのか、在坂5年の1793年(寛政5年)42歳で病没している。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
光明寺山門 松屋町筋に面してある光明寺の山門。
この光明寺には、中井利安を始め江戸時代の大坂を代表する文化人が多く眠っている。
光明寺の無縁墓の一角に中井利保の墓(右側)がある。墓標は「中井市郎右衛門墓」とあり、1794年(寛政5年)7月に石門心学の静安舎が建立。
左側には1819年(文政2年)3月静安舎が建てた「石門亡友碑」がある。
いずれの墓も苔むして、緑色になっている。

中井利保の墓は長年行方不明であったが、1933年(昭和8年)発見され、明誠舎の人たちが修復した。
中井利安の墓

文化人墓-046/TTL-471

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