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所在地:大阪市旭区清水3丁目
最寄駅:地下鉄今里線「清水」下車、北へ250m。「清水5丁目」の
信号を西に入り、約150m |
先に訪ねた島本町水無瀬神宮では、大阪府下で神宮と呼ばれるのは水無瀬神宮のみであるとの案内があったが、なんと大阪市旭区には大神宮が存在した。
当社の『由緒』によれば、「天智天皇の頃、現在地に宮寺があり、住民の藤原氏一族が祖神の春日大神を産土として奉祀していた」とあり、その創起は7世紀中頃まで遡るとしているが、それを裏付ける資料は乏しく、真偽の程は定かではない。
ただ、この清水町の近くに太子橋という地名が存在し、聖徳太子に関わる伝承もあるところから、飛鳥時代には、人は住み着いていたものと思われる。
更に由緒には「時代は下って、足利時代に至り、佐太(現守口市)の本山来迎寺開山の誠阿上人が、賊徒の手による火厄の災難から一命を助けられたことがあり、上人は報恩のため、自分の尊崇する男山八幡宮の分霊を此の神社に奉斎したのは本神社の八幡神である。
その後、村民が、悪疫退散の祈祷を誠阿上人にお願いし、霊験があったので、従来の春日大神を従神とし、八幡大神を主神として今日に至っている。なお、前記除難の縁により、当神社を「やけずの宮」ともいい、境内に不焼稲荷社を奉祀する」とあり、佐太来迎寺とのかかわりについて述べられている。 |
当社と来迎寺の誠阿上人とのかかわりについては『大阪伝承地誌集成』に詳しく述べられている。要約すると、
建武年間(1334~36年)僧誠阿は厳しい修行の末、師の法明上人から郷里に戻り、寺を建てる許しを得て、
後醍醐天皇下賜の天得如来と男山八幡宮の宝物を拝領し帰途についた。これを同輩たちがねたみ、途中で待ち伏せ盗賊に化け、如来を奪い取ろうとした。誠阿は当地辺りにあった古堂に逃げ込んだが、同輩たちは古堂に火を放ち焼け殺そうとしたが、幾度試みても火は直ぐに消えてしまった。同輩たちは誠阿の徳の力に感心し、悔いて弟子になった。以後、この古堂は不焼宮(やけずのみや)と呼ばれた。
この事件の後、不焼宮近くに住み、殺生を好み、神社仏閣を壊し狼藉のかぎりを尽くす乱暴物が、農民たちを苦しめた神罰で悪疫に罹り、一族とともに死亡したが、今度は死霊となり、里人たちにとりつき、多くの人が羅病した。
見かねた誠阿は不焼宮に八幡大神を勧請し、7日の施餓鬼法要を営んで平癒を祈願したので、さしもの死霊も退散した。このことから不焼宮は今も火災と悪疫を防ぐご利益があるという。
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[参考資料] 『八幡大神宮由緒』 八幡大神宮
『大阪伝承地誌集成』 三善貞司著 清文社 |
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八幡大神宮の正面鳥居。
参拝したときは夏祭りの準備中であった。 |
八幡大神宮の拝殿。
祭神は八幡大神、春日大神、蛭子大神を祀る。 |
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境内摂社の不焼稲荷社。
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拝殿の前の狛犬は『 願主 黒原村 乾庄右衛門 弘化3丙午年8月吉日』とあり、現在の神社の中では一番古い建造物と思われる。 |
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清水5丁目(道を隔てれば守口市)に鎮座する「八幡大神宮のお旅所」。社殿の中をのぞくと、お祭りのみこしの組み立ての最中だった。本宮とは内環状線(国道497号線)を挟んである。
手持ちの大阪市内地図(昭文社刊)には清水3丁目の本宮が記載されておらず、清水5丁目のお旅所を「八幡大神宮」とあったので、先ずは当所を目当てに訪問したが、お旅所であった。 |
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[2009年9月5日参拝] |
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