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史 跡
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法明寺へ
法明上人の墓 所在地:東大阪市長瀬2丁目 長瀬霊苑内
最寄駅:JRおおさか東線「長瀬」下車、東へ約200m。
OR、近鉄大阪線「長瀬」下車、南西へ約500m(1本道ではない)
法明上人の墓は、行基菩薩が作ったといわれる河内7墓のうちの1つ「長瀬墓地(現長瀬霊苑)」にある。
 法明上人は、1279年(弘安2年)摂津国深江で生まれ、幼名を信貴千代と称した。父は後宇多天皇に仕えた清原右京亮守道、母は河内枚岡神社の神司の娘と言われている。
 相次いで肉親の死に遇い世の無情を感じて出家、高野山に登り千手院谷真福院の俊賢法師の許で出家し、法明坊良尊を号した。
 初め密教を修学したが、のち念仏に帰依し43歳の時、石清水八幡大士の神勅により、融通念仏宗第7世の法灯を継承し、集団の基礎を固めた。このことから上人は中興の祖と称えられている。
 晩年は故郷深江に隠遁し、念仏三昧の生活を送った。1349年(貞和5年)6月13日71歳で示寂。当墓地で荼毘に付し、卵塔を建立し、遺骨を埋葬された。
 ここを有馬御廟というのは、律令時代より明治29年に至るまで渋川郡有馬村の呼称があったところから来ている。
 河内7墓は今から約1200年前の奈良時代に行基菩薩によって河内国に作られた7ヵ所の墓地で、長瀬、岩田、額田(以上、東大阪市)、神立、垣内、恩智、晒(以上、八尾市)の7墓を盆の14日に巡拝すると迷惑を掛けずに極楽往生できるとの言い伝えがあり、中河内地区ではお年寄りがこれらの7墓参りをして先祖供養をする風習がある。

[参考資料] 『現地説明板』 東大阪市、大念仏寺、長瀬霊苑奉賛会
法明上人の墓 法明上人の墓
法明上人の墓は南北3.95m。東西3.75mの石垣に囲まれ、墓塔は高さ2.44mの花崗岩。
この墓が作られた年代は上人の死よりずっと後の世の江戸時代初期に建立されもので、玉垣は嘉永年間(1848〜53年)に、下小阪の浄雲寺の慈円和尚が浄財を募り、寄進した。墓に至る参道は1998年(平成10年)法明上人第650会御遠忌奉修局記念事業の一貫として東大阪市並びに長瀬墓地奉賛会の協力によって整備された。
なお、墓は1971年(昭和49年)東大阪市の史跡に指定されている。
墓地の東入口から入ったところにある行基菩薩の墓。
行基菩薩は泉州大鳥郡蜂田(現堺市)に生まれる。
15歳で出家、貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動し、81歳で入滅した。
行基菩薩の墓
阿弥陀仏坐像 墓地の中央に建つ「戦没者の墓」
墓地内寺院、「阿弥陀院」に安置されていたと伝わる阿弥陀仏座像。鎌倉前期の作と考えられ、東大阪市の有形文化財に指定されている。 墓地の中央に建つ日露戦争の「戦没者の墓」。
この墓地は明治の日清・日露戦争を始め、第1次、第2次世界大戦で命を落とした人の墓が多く見受けられる。

史跡-173/TTL-701

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