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寺院めぐり
寺院めぐり 法明寺
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深江山 法明寺 所在地:大阪市東成区深江南3丁目
最寄駅:近鉄奈良線「布施」下車、北へ約550m。
OR 地下鉄千日前線「新深江」下車、東へ約500m
法明寺は鎌倉末期の1318年(文保2年)、大念仏寺7世で中興の祖と呼ばれる法明上人が両親菩提のための草庵を結んだのを創起とする。
  法明上人は1279年(弘安2年)当地で生まれ、父は宇多天皇に仕えた清原左京亮守道といい、母は枚岡神社の神司主計頭の娘であったという。25歳で高野山で出家、比叡山にものぼり、真言の秘法、天台の教観を極め、一代の名僧となったが、末世の凡夫の生死出離の肝要な悟りは浄土の法門、阿弥陀の本願による外はないと感じ、故郷の当地に帰り、念仏三昧の生活に入ったと伝わる。
 1321年(元亨元年)、上人43歳のとき、夢に石清水八幡大士が来現し、『融通念仏の法灯を伝授し、石清水八幡宮が預かっている霊宝を返還する』という神勅が伝えられた。
この神勅を受け、男山の石清水八幡宮に出向いて行く途中、同じ神勅を受けた八幡宮の社人が深江に向かう途中の枚方の茄子作で、この両者の一行が出会ったという逸話が残されている。
  法明上人は、平安時代後半の1124年(天治元年)に良忍上人によって創められ、途中長きにわたり途絶えていた融通念仏宗の法灯を継承し、大念仏寺を再興したのち、当寺に隠遁し、1349年(貞和5年)71歳で遷化。墓は有馬御廟(現東大阪市の長瀬霊苑)にある。
  法明寺は江戸時代の初め、正保年間(1644〜8年)に至り、堂宇の荒廃は甚だしく、1648年(慶安元年)浄土宗の僧善譽夢白が再建し、浄土宗知恩院末となり、現在に至っている。

[参考資料] 『現地説明板(法明寺の由来)』 法明寺
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
法明寺山門 法明寺山門。
本堂は約300年前の江戸時代に建てられたものだが、
今から約50年前、火災に遭い、2層だった屋根の部分を1層にして修復したとのことであった。
法明寺本堂
法明寺鐘楼 鐘楼は古く、本堂と同じく江戸時代のものと思われるが、吊るされている梵鐘は戦後の1980年(昭和55年)の再建。
元の梵鐘は1943年(昭和18年)、先の大戦の折、供出し、鉄砲玉に加工されてしまった。
1262年(弘長2年)建立の雁塚 1339年(延元4年)建立の雁塚
法明寺境内にある雁塚。左側の石塔は1262年(弘長2年)、右側の石塔1339年(延元4年)の記銘があり、石塔に関わる以下のような話が伝わっている。
「法明上人の俗弟に清原刑部丞正次という弓の名手がいた。ある冬の日に正次は家来を伴って狩りに出かけた。その夕方帰りがけに一群の雁に 出合い、先頭の一羽を射ち落としたところ、その雁には頭が見当たらず、その周辺を探したが見つからず、そのまま帰った。 次の冬に狩りに出て一羽の雌の雁を射ち落としたところ、羽の下から乾いた雄の雁頭が出てきた。」という。
この話を聞いた法明上人は、雁の夫婦愛に心うたれ、その冥福を祈るために四重の石塔を建立したのが雁塚であると伝わる。年代の古い石塔は法明上人の生まれる17年前のもので、少し年代が合わない。
鐘楼の前に建つ」石像 左の写真の拡大図
鐘楼の前に建つ石塔。灯篭の火袋に当たる部分には上が6体、下が7体の計13の仏様が彫られている。
珍しい形の石塔であるが、これについての案内板は立てられていなかった。

寺院-257/TTL-697

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