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神社めぐり 鵲森宮
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鵲森宮神社 所在地:大阪市中央区森の宮中央1丁目
最寄駅:JR環状線「森之宮」下車、玉造筋を渡り、すぐ
当社の名の「森ノ宮」は地名や駅名にもなっているが、正式には「鵲森宮」(かささぎもりのみや)といい、その起源は今から約1410余年前、589年(崇峻天皇2年)聖徳太子物部守屋との仏教の是非をめぐる戦いに必勝を祈願し、勝った暁には四天王像を造ることを誓った。そして、その戦いに勝利し、太子は先ず父母の用明天皇穴穂部間人皇后を祀り、その後、四天王像を造り、この地に「元四天王寺」を創建したと伝わる。
 造営当時は方八町にして、神領神田広大で、千石余あったといわれ、古地図、古文献にも多数記され
た由緒ある古社であり、本社には用明天皇、穴穂部間人皇后及び聖徳太子を祭神として祀る日本唯一の神社でもある。
 時代が下り、1570年から80年にわたる(元亀元年~天正8年)織田信長による石山攻めに巻き込まれ、社殿は兵火に遭い、灰燼と化したが、御霊体は別のところに奉安することにより難を逃れた。しかし、時勢の替わりと共に、衰退し、今は小社に鎮守している。
四天王寺の創建は別の資料では『587年(用明天皇2年)摂津国玉造に四天王の像を安置し、寺号を四天王寺と定め日本最初の官寺を建立した。』とあり、鵲森宮パンフレットの「元四天王寺」の創建とは数年のギャップがある。

[参考資料] 『鵲森宮由緒書』 鵲森宮パンフレット
鵲森宮神社正面鳥居 社名を鵲森宮と云うのは、由緒書によれば、『598年(推古天皇6年)、鉄鋼業の祖といわれる難波の吉士磐金(きし いわかね)が、新羅国に使わされ、帰国した際、鵲2羽を献上し、この森に飼われたところから、「鵲の森」と称えられ、これが宮の名前となり、これを略し「森之宮」または、「森明神」というようになった。』とのことである。
「森之宮」の名は現在も中央区と城東区に町名として残る。
鵲森宮神社拝殿
境内摂社の「五幸稲荷社」火難・水難・盗難飢餓・産難
を取り除く、宇賀御魂命を祀る日本唯一の「稲荷社」と
のこと。
 拝殿はこじんまりとした建物である。前の狛犬は先の大戦の空襲のときの弾痕の跡が残っており、歴史の証人でもある。
鵲森宮神社境内にある鳥居
境内にある鳥居は1855年(安政2年)の建立で、新しい建物が多い中で、古い物に属する
拝殿の脇には大友家持の歌碑が建っている。
「鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白き を見れば 夜ぞ更けにける」(小倉百人一首に採用されている)。
ご朱印
鵲森宮神社朱印
[2004年4月16日参拝]

神社-031/TTL-187

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