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所在地:大阪市住吉区帝塚山東5丁目
最寄駅:南海高野線[住吉東]下車、駅前東へ約100M右手に入ったところに西門あり |
当山の創建は天慶年間の頃(930〜46年)と推定され、1084年(応徳元年)住吉大社第39代神主
津守国基は白河天皇の勅命により、八町四方の寺域を以って再建したと伝わる。
その土木工事の折、土中より『七宝荘厳極楽浄土云々』と書かれた金の三尺の宝鐸が見つかり、この銘文に因み、「荘厳浄土寺」と名付けられた。13年後の1096年(永長元年)に諸堂が整い、国基の長男の増命阿闍梨が別当(住職)に任じられ、開眼落慶法要が執行されている。
鎌倉時代に入り、1260年(文応元年)奈良西大寺叡尊上人の勧化にて、律宗に改宗。1275年(建元元年)叡尊上人の巡錫があり、近在の人々192名への授戒会が行われるなど、以来南都西大寺派の根本道場としての道を歩んで来たが、戦国時代には度々兵火に見舞われ、荒廃が進んだ。
江戸時代の1681年(天和元年)本堂などが再興され、現在に至っている。
2002年(平成14年)12月〜03年3月にかけ、当寺境内の西側で発掘調査が行われ、その結果、
鎌倉〜室町時代の井戸や溝・柱穴、平安時代まで遡る複弁蓮華文軒丸瓦や均整唐草文軒平瓦のほか、中世から近世の多数の瓦が発見され、創建当寺の規模が再確認されている。
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[参考資料] 『900年の歩み』 荘厳浄土寺パンフレット
『摂津国八十八ヶ所霊場案内記』 古寺顕彰会発行 |
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山門とその脇に「後村上天皇聖跡碑」と「後村上天皇御製碑」が建っている。
後村上天皇は、後醍醐天皇追善のため当寺にて、「法華八講」の法要を1375年(正平18年)と78年(同21年)と2回修し、五色仏舎利と和歌を奉納している。 |
江戸時代に再興された本堂は、幸い先の大戦では戦災に逢わなかったが、お寺の方の話では、「戦前・戦後の混乱時期は無住寺に近い状態で、かなり痛んでいた。」とのことで、戦後入られた先代住職の奮迅により整備が進み、危機的状態を脱し、現在に至っている。
寺務所には創建当時の瓦等
が展示されている。 |
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当寺には本尊不動明王(平安後期)、愛染明王坐像(鎌倉後期)等と共に、境内も大阪府文化財に指定されている。この木は栃の木で樹齢350年といわれる
境内にある「告磯石」。伝えら
れるところによれば、国基が庭
石に奇岩を得ようと和歌浦に
出向いたが叶わず、玉津島神
社に詣で、夢のお告げにより、
この青石を得たという。 |
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摂津八十八ヶ所霊場 |
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[2004年3月13日参拝] |
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