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恵日山 千手寺 在地:東大阪市東石切町3丁目
最寄駅:近鉄奈良線「石切」下車、石切神社への参道を約500M
当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、この地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
 また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊とした。
 その後、維喬親王(これたかしんのう:844〜897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
 いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登場するこの寺の寺伝は一大叙事詩でもある。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社
千手寺山門 千手寺の山門。その奥に本堂が見える。
本堂(右)と護摩堂(左)。本堂は別名光堂と呼ばれる。
お寺のパンフレットによると、光堂とは方形造りの正面3間の比較的小さなお堂で、阿弥陀如来や千手観音、地蔵菩薩などを安置し、西方浄土に往生を願うお堂を呼ぶとのこと。
旧本堂は1720年(享保5年)に建立だが、老朽化のため1984年(昭和59年)に改修されている。

手前の護摩堂は現在は不動明王を安置するが、もとは開山堂と称し、役行者を祀っていた。その前身は在原業平の廟所であったと考えられるとのこと。この堂も1773年(安永2年)に再建された堂宇だが、1958年(昭和33年)に改修され、現在に至っている。
千手寺本堂と護摩堂
在原業平廟塔 在原業平の腰掛石
在原業平廟(左)と業平腰掛石(右)。寺伝では業平が没したとき、堂の右に廟を築き、生前愛玩の衣冠・歌集・楽器などを寺に納めたと伝わる。この5輪塔は南北朝時代のものと見られる。
千手寺-3 桂文之助句碑
境内にある社。
祭神は中興開山「在原業平」と鎮守「菅原道真」を祀る。
桂文之助句碑。文之助は明治時代に活躍した落語家で
、後に曽呂利新左衛門を名乗った。刻まれている「業平と背中合わせのぬくさかな」は芭蕉が埋葬されている義仲寺に建てられている門弟又玄の句碑「木曽殿と背中合わせの寒さかな」のパロディである。
ご朱印
河内33ヶ所霊場 役行者霊蹟札所
千手寺朱印-1 千手寺朱印-2
[2004年12月25日参拝] [2004年12月25日参拝]
寺院-093/TTL-323

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