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所在地:貝塚市水間
最寄駅:南海本線「貝塚」下車、水間鉄道に乗換え「水間」下車、徒歩約10分 |
寺伝によると744年(天平16年)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創、行基49院の1つと伝える
開創当時は七堂伽藍を備え、坊院150余があったと言われる。その後も大寺院として、代々の朝廷の保護と崇敬を得ていた。
水間寺に伝わる記録によると、南北朝時代の1351年(正平6年)楠木正儀が安堵状を出しており、その後、和泉守護職大内義弘が1395年(応永2年)塔婆修理料として田地を寄進している。
このように隆盛を誇った大寺院であったが、1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来攻めの際、根来側についた当寺は堀秀政の軍勢により焼き討ちに遭い、七堂伽藍をはじめ坊舎等は灰燼に帰してしまった。
その後、岸和田藩主となった小出氏や松井氏が寄進し復興をみたが、中でも岡部氏が延宝年間(1673〜81年)に金堂・鎮守社を復興、元禄年間(1688〜1704年)に三重塔、護摩堂、食堂を造営している。
1784年(天明4年)に大火に遭ったが、当時の藩主岡部長備・長慎父子が再度復興に尽力、1811年(文化8年)に本堂を、1827年(文政10年)前後に諸堂宇を整備し、現在に至っている。
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[参考資料] 『水間寺略記』 水間寺パンフレット
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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水間寺本堂。本尊は身丈1寸8分の観世音菩薩であるが、この観音像は744年(天平16年)聖武天皇42歳のとき、奈良の都で厄除けの霊像出現を感得し、勅命を受けた行基菩薩が当地に霊域を求めて来訪。滝のあたりで、龍に化身し、滝壺に投じた白髪の仙人から授けられたという。この由来により「厄除 水間観音」として信仰を集めている。 |
三重の塔。
寺伝によると孝謙天皇が仏舎利を多宝塔の中に安置したと伝わるが、天正の兵火で焼失。万治年間(1658〜61年)に三重塔として再建され、現在の塔は1585年(天保5年)に再建されたものである。釈迦仏が安置されている。
孝謙天皇:聖武天皇第2皇女。後に重祚して称徳天皇となる。在位:孝謙天皇749〜58年、称徳天皇770〜81年
藤原仲麻呂や弓削道鏡を重用した。 |
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鎮守権現堂。
行基菩薩が熊野・蔵王・白山の三所権現に勧進したと伝わる。 |
護摩堂。不動明王を祀る。
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経堂。かっては聖武天皇宸書の妙典、光明皇后の般若経、慈覚大師の妙法経等が収められていたが、兵火にあって焼失。高倉天皇(在位:1168〜80年)の勅命をもって大般若経の写本の1部が収められている。 |
鐘楼。
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和泉三十三ヶ所観音霊場 |
新西国三十三ヶ所霊場 |
南海沿線七福神札所 |
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[20[2007年2月12日参拝] |
[20[2007年2月12日参拝] |
[20[2007年2月12日参拝] |
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