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史 跡
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水間寺へ
お夏・清十郎の墓 所在地:貝塚市水間 水間寺境内
最寄駅:南海本線「貝塚」下車、水間鉄道に乗換え「水間」下車、
徒歩約10分
お夏・清十郎の墓が水間寺の境内の一角にある。お夏・清十郎と言えば、井原西鶴の浮世草紙『好色五人女』(1686年刊)やそれを脚色した近松門左衛門の世話物『五十年忌歌念仏』(1707年初演)で知られる「お夏・清十郎」を当然のごとく思い浮かべるが、水間寺のそれは、どうも別人のようである。
 西鶴の物語は江戸時代始めの1662年(寛文2年)播州姫路城下で起きた事件を題材にしたものとされ、二人の墓も姫路市内の慶雲寺というお寺にあり、姫路市の観光スポットの1つとなっている。
 下の参考資料『日本歴史地名体系』には水間は清十郎の故郷と書かれており、水間寺の墓は後年2人の供養のために建てられたものかと想像していたが、現地に建てられてあった解説碑によると名前は同じでも時代はなんと鎌倉末期から南北朝時代の出来事として伝えている。
 碑文には『約700年前、伏見天皇の勅使として当寺を訪れた山名清十郎と水間の豪農楠右衛門の娘、お夏の美男美女が「愛染明王」に祈願し、身分の上下を乗り越え、恋を成就させたと伝える。
 この間、清十郎は、北畠顕家の阿倍野の合戦にも参加しており、幸い命は取り留めた。お夏は清十郎の姿を求め戦場を彷徨っていたが住吉の松原で再会し、2人は手に手を取り合ってこの水間に帰ったが、京都御所の知るところとなり、追手が差し向けられた。清十郎の家来の山名忠平が身代わりとなり、首を打たれた。』とあり、自己犠牲ではなく、家来を犠牲にした恋の成就と言うのは、物語としては現実的過ぎるようだ。

[参考資料] 『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
         『現地解説碑』 愛染堂設立発起者 南川寅松氏名義
お夏・清十郎の墓-1 お夏・清十郎の墓-2
お夏・清十郎の墓と伝わる宝篋印塔。
墓の前の花立てには林長二郎(長谷川一夫)田中絹代の名が刻まれている。この二人が主演した映画「お夏清十郎」は1936年(昭和11年)に封切られており、その頃に映画の宣伝のため奉納されたものか。
お夏・清十郎の墓は愛染堂の前にある。
愛染堂は下の写真の碑文によると1960年(昭和35年)に再建されたようである。
安置されている「愛染明王」は行基が椿の木に刻んだものと伝わる。
水間寺愛染堂
愛染明王由緒碑 愛染堂の前に「縁結び愛染明王由来」と「お夏清十郎伝説」が解説されている碑があった。
この地の「お夏・清十郎」物語は西鶴の『好色5人女』の
第一話「姿姫路清十郎物語」を執筆するに際し、何らかの影響を与えたのだろうか。

史跡-127/TTL-534

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