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史 跡
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・11/3/14
安養寺の記載内容追加
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中将姫伝説 所在地:
高林寺:奈良市井上町
安養寺:奈良市鳴川町
中将姫伝説(2)に引き続き、奈良町に在る寺院です。

高林寺
豊成山高林寺は融通念仏宗の尼寺で、元は元興寺の一院であった。また、中将姫の父の藤原右大臣豊成の屋敷跡と伝わる。境内には767年(神護景雲元年)豊成が葬られたという墳墓があり、現在に伝わっている。
 寺伝によれば、宝亀年中(770〜81年)に藤原魚名の娘が、中将姫に仕えて尼になり、高御門(現高御門町)の室にいて、豊成の廟塔を守っていた。
 1180年(治承4年)平重衡の南都焼打ちの兵火に遭い、堂宇は焼失した。現在、東大寺四月堂に安置されている千手観音木像は、この時に兵火を逃れるために他所に移したものが、時代を経て、東大寺仏像になったと伝える。
 長い間、再興されなかったが、1534年(天文3年)に高御門の尼室を移し、高林寺として再興、現在に至っている。この頃、奈良茶人で、連歌師である北端宗陳里村紹巴高坊心前法師が相次ぎこの寺の北端に居を構えていた。松永久秀が多門城を築く際、近在に在る多くの石塔が運び去られ、この寺に建てられていた豊成父子の石塔も持ち去ろうとしたが、心前法師が「曳きのこす 花や秋咲く 石の竹」と詠んで、久永の心を打ち、危うく難を免れたという故事が伝わっている。その後この石塔は徳融寺に移された。

[参考資料] 『豊成山高坊高林寺略縁起』 高林寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』(奈良府の地名編) 平凡社
街中に溶け込むようにある高林寺山門。
本堂の前に建つ豊成の廟塔。
本堂には豊成と中将姫の木造が安置されている。
豊成の墳墓全景。
庫裏(右手)の前に植えられていた巨大な蘇鉄。
蘇鉄の左側奥に豊成の墳墓が見える。

安養寺
安養寺は紫雲山と号し、元は法相宗であったと伝えるが、江戸時代以降は浄土宗に属している。
寺伝によると、平城天皇の創立で開祖は法如禅尼 (中将姫)と伝わる。中将姫の父藤原豊成が横佩右大臣と称されていたため「横佩(よこはぎ)堂」とも称した。元は、東城戸町にあったが、1649年(慶安2年)当地に移建したと伝えられる。
 後に、恵心僧都一刀三礼の作と伝えられる阿弥陀如来坐像と観音・勢至菩薩像(いづれも藤原末期の作で重要文化財)安置してから「安養寺」と改称した。現在、この本尊の阿弥陀如来三尊は奈良国立博物館に寄託されており、別の阿弥陀像が安置されている。 また、安養寺は別名を「大和善光寺」とも呼ばれ、善光寺如来三尊像も安置している。
 江戸時代中期に著された『奈良坊目拙解』によると、1532年(天文元年)南都の一向宗徒の大乱があり、僧坊は兵火に罹らず残ったが、脇士二尊は賊に奪われ、行方が知れなかった。後に、伊賀国阿佐宇陀庄の九品寺に有って、40余年を経て、1581年(天正9年)織田信長の伊賀追討の時、この二尊が再び当寺に帰ったという。
 なお、『奈良坊目拙解』では当地を藤原豊成居宅の地としたり、中将姫母子の安置仏というのは、誤りとしている。

[参考資料] 『現地案内板』
         『日本歴史地名体系』(奈良府の地名編) 平凡社
安養寺山門 安養寺本堂
安養寺山門。
『奈良坊目拙解』によると、「当寺には鬼子母神の小祠があり、当寺の鎮守である。」とあり、山門の右横のお堂に祀られているのが、その鬼子母神と思われる。
安養寺本堂は仏堂にしては珍しく切妻造・厚板段葺(現在は瓦葺)の屋根であった点など、類例の少ない建物で、室町時代中期を降らない年代の建立。奈良県指定有形文化財である。
江戸時代に修復されており、「正徳五年」(1715年)の棟札が残る。

史跡-191/TTL-727

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