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[更新記録]
・11/3/14
誕生寺の記載内容追加
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中将姫伝説 所在地:
誕生寺:奈良市三棟町
徳融寺:奈良市鳴川町
奈良市内の観光スポット1つである奈良町界隈は元興寺を中心に多くの寺院が点在するが、なかでも奈良時代、中将姫の父藤原豊成の屋敷があったとされる、「平城京の外京、6坊大路」にあたる地域にはゆかりの寺院が、集中して存在する。
それぞれの寺院には、中将姫にまつわる色々な伝承が今に伝えられており、興味深い。

誕生寺
異香山誕生寺は浄土宗の尼寺で、寺伝によれば、藤原豊成の屋敷があったところで、中條姫が生まれた地という。 境内には、中将姫が産湯に使った井戸があり、中将姫坐像を祀る。
寺宝に740年(天平12年)光明皇后が祈願をしたという断簡と蓮糸曼荼羅と伝える断片がある。
なお、町名の三棟町は父・豊成と実母・紫の前、中将姫のそれぞれの御殿が3棟建っていたところからの由来だという。

  江戸時代中期に著された『奈良坊目拙解』には、当地は元は元興寺伽藍の境内に在り、元明天皇の勅願により、明日香に在った法興寺が平城京に移されたのは717年(養老2年)で、天平の頃には既に、法興寺の一寺として当地に在り、釈迦如来の誕生仏、灌仏具などを安置し、誕生堂と号した。
中将姫が誕生した当時、豊成は父武智麻呂と共に、難波の別宅に住しており、豊成の居宅が寺内に在ったというのは有り得ないとし、また、元明天皇の諱が「日本根子天津御代豊國成姫天皇」と号したところから、後世、この豊国成姫を誤って、豊成と中将姫と混合し、釈迦誕生仏像をからめ、中将姫誕生所としたものであろうとしている。
『奈良坊目拙解』:1735年(享保20年)刊 村井古道著の地誌、当時の奈良町の町名の由来などが記されている。
村井古道 (1681〜1749年)は奈良町(西城戸町)に住んだ医者で俳人。小西来山の門下生、松木淡々らと交流があった。

[参考資料] 『日本歴史地名体系』(奈良県の地名編) 平凡社
誕生寺山門と「中将姫誕生霊地」の石碑 誕生寺本堂
誕生寺山門とその前に建つ「中将姫誕生霊地」の碑。
石碑の側面には「従1位右大臣藤原豊成卿旧跡地」とあった。
誕生寺本堂。
本堂には、中将姫座像と浄土曼荼羅を祀り、毎年4月13・14日に開帳される。
中将姫産湯の井戸 山門横に建つ北向庚申堂
中将姫の産湯に使ったという井戸。
山門横に建つ北向庚申堂。堂の中には弘法大師像、赤面金剛像、薬師観音像が安置されている。

徳融寺
豊成山融徳寺が建つ当地はかっては藤原豊成の屋敷があり、境内には中将姫が継母に盗みの疑いをかけられ 、雪の降る朝、老松の下で割竹打ち折檻を受けたという、歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台となったその老松の切り株が1974年(昭和49年)頃まで存在したとのことである。
 寺伝によれば、「元は元興寺の一院でその境内に在ったが、室町時代に元興寺が土一揆で罹災したため、本尊を現在地に移し、1590年(天正18年)融通念仏宗の檀家寺院として復活した。」と伝わる。

 江戸中期に著された『奈良坊目拙解』には「南都年代記曰く、慶長16年(1611年)鳴川大念仏建立云々」とあり、上記の記録とは若干のズレがある。
 観音堂裏に藤原豊成・中将姫父子の石塔(鎌倉時代)があるが、上記の 『奈良坊目拙解』によるとこの石塔は元は、井上高坊(高林寺)にあったのを1677年(延宝15年)に当寺に移したものであるという。
この時、高坊心前法師が詠んだ自筆の短冊「曳きのこす 花や秋咲く石の竹」も同時に移し、什物としたとある。

[参考資料] 『現地案内板』
         『日本歴史地名体系』(奈良府の地名編) 平凡社
徳融寺中門 徳融寺本堂
徳融寺中門。
前に建つ奉納灯は「文化十四年(1817年)施主 油屋庄八」の銘がある。
徳融寺本堂。
本堂は1667年(寛文7年)休岸上人の再建。本尊のは木造阿弥陀仏は北条政子の念持仏と伝わる。
中将姫墓 藤原豊成の墓
中将姫の墓と伝わる宝筐印塔(左の写真)と豊成の墓と伝わる宝筐印塔(右の写真)。豊成の墓の横に建つ「豊成公中将姫御墓」の側面には「施主片岡仁左衛門、同千代之助、嵐璃寛」の銘があったが建立年月は不明。
墓は1677年(延宝5年)高林寺から移されたと伝わる。

史跡-190/TTL-724

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