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史 跡
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与謝蕪村の句碑 (1) 所在地:
淀川堤:大阪市都島区毛馬町3丁目
淀川工事事務所:大阪市北区長柄東3丁目
大阪星光学園:大阪市天王寺区伶人町
与謝蕪村は俳諧・絵画に偉大な足跡を残した文人である。松尾芭蕉小林一茶とともに近世俳諧史を代表する俳人であり、画人としては、池大雅円山応挙と並び称される巨匠である。
 蕪村は江戸時代中期の1716年(享保元年)、摂津・東成郡毛馬村に生まれた。姓は谷口、後に与謝を名乗った。蕪村は生前、自分の出自についてほとんど語っていないが、有名な「春風馬堤曲」について、門人に充てた手紙の中で、『春風馬堤曲は毛馬塘(つつみ)也、即ち余が故園なり』とした上で、幼児の頃の思い出を書き綴っている。
  蕪村は17、8歳の頃に毛馬を出て、江戸に下り、再び郷里に帰ることはなかった。江戸では早野巴人(夜半亭宋阿)に俳諧を学んだ。1742年(寛保2年)27歳の年に師巴人の死にあい、その後江戸を去る。そして、関東、東北地方を巡歴し俳諧と画技を練った。10年近い放浪生活を経て、1751年(宝暦元年)京都に上り、居を構えた。 以後、活動の中心は京都に置き、丹後(母の実家が丹後与謝と言われる)、讃岐などにも長期滞在している。この間においても、殆ど大坂には足を踏み入れていないのは、自らの出生にまつわることや子供の頃の体験がトラウマになっていたのかも知れない。
 1783年(天明3年)12月25日、68歳で没した。蕪村の墓は京都市左京区一乗寺の金福寺境内、自らが再興した「芭蕉庵」の裏山にある。
 蕪村は地元大坂生まれであるにもかかわらず、彼の句碑や顕彰碑が非常に少ないのは残念なことである。

[参考資料] 『大阪人物事典』 三善貞司編 清文堂出版社
         『浮瀬俳跡芭蕉園』 大阪星光学園編

淀川堤に建つ句碑
蕪村の句碑-1 大阪市都島区毛馬町の淀川の堤の上にある「蕪村生誕地」碑と句碑。
句は春風馬堤曲 十八首の中の「春風や 堤長うして 家遠し」が刻まれている。
この句碑は淀川改修100年を記念して1978年(昭和53年)に建てられた。

与謝蕪村句碑-4

 句碑の傍らにある「蕪村礼賛」
 の碑(タイルが埋め込まれてい
 る)。

淀川工事事務所構内に建つ句碑
大阪市北区長柄東3丁目「国土交通省淀川工事事務所」の敷地にある小さな句碑。
この碑は元は旧毛馬洗堰堤防下に建てられていたが、
上記の句碑の建立に伴い、現在のところに引っ越した。
この句碑は1953年(昭和28年)地元有志の人達により建てられおり、小生には子供の時からなじんできたものである。
碑の表には『俳聖 蕪村顕彰之碑』の文字と「春風や 堤長ふして 家遠し」の句が刻まれている。 裏面には蕪村の生家は『此ノ所在地ヨリ北方約三百米突地点ニ在リシ‥‥』とあり、現在は新淀川本流のところと推定している。1896年(明治29年)から13年間にわたる新淀川の改修工事の際、毛馬村、赤川村や対岸の豊里村の一部など、多くの町や村が川底に沈んでいる。
蕪村の句碑-2

大阪星光学園校内に建つ句碑
与謝蕪村句碑-3 大阪市天王寺区「大阪星光学園」校内にある、江戸時代の有名な「浮瀬亭跡」にある句碑(現在は「蕉蕪園」として整備されている)。
蕪村は少なくとも2回「浮瀬亭跡」に来ていると思われ、1776年(安永5年)に招かれた時の句「小春凪 真帆も七合 五勺かな」と、詠んだ年月が不明の「うかぶせに 沓並べけり 春のくれ」の2首が刻まれている。
この句碑は1982年(昭和57年)に同校の卒業生の記念碑として建立されている。

史跡-037/TTL-217

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