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所在地:
梅田コマ劇場:大阪市北区茶屋町
佐太天神宮:守口市佐太中町7丁目
個人宅:大阪市都島区
源八橋の石碑:大阪市都島区と北区に架かる
「春風馬堤曲」碑:大阪市都島区中野町2丁目 都島区役所 |
蕪村の句碑パート2です。
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梅田コマ劇場前に建つ句碑 |
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大阪市北区茶屋町梅田コマ劇場前の広場に「菜の花や 月は東に 日は西に」の句碑がある。
写真でご覧のように非常に斬新なデザインで、「句碑」というより「モニュメント」といった方がぴったりするようだ。
この句は1774年(安永3年)京都東山での連句の発句。明治初年の頃の茶屋町は、あたり一面菜の花畑であったそうである。 |
佐太天神宮境内に建つ句碑 |
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守口市佐太中町「佐太天神宮」の境内にある句碑。
「窓の灯の 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな」
この句碑は1972年(昭和47年)に地元の有志の人達により建立されている。 |
個人宅の庭に建つ句碑 |
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蕪村が晩年の1780年(安永9年)生まれ故郷の毛馬村の近く、「源八の渡し」を渡ったとき詠んだ句「源八を わたりて梅の あるじかな」の句碑が、都島区の個人宅の庭に建てられており、お願いして写真を撮らせて頂いた。
この碑は大坂城の石垣(それを示す刻印:右の写真)を利用して、大正時代に建てられたとのことで、当時はまだ「源八橋」は架かっておらず、「渡し船」が健在だった。〔源八橋の開通は1936年(昭和11年)〕
なお、蕪村はこの句を詠んだときも、毛馬には(距離にして2km足らずであるが)帰ったとの記録は無い。 |
源八橋の由緒 |
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厳密には句碑ではないが、大阪市内を流れる淀川に架かる源八橋の欄干(北区と都島区の境界辺り)に橋の由緒が書かれた碑が埋め込まれているが、この中に蕪村の句「源八を わたりて梅の あるじかな」が取り上げられている。上記の句碑のところでも書いたように、源八橋が架けられたのは1936年(昭和11年)のことで、それまでは、渡しが唯一の交通手段であった。江戸時代・元禄末の頃(1700年頃)には既に「源八の渡し」として知られていたという。 |
都島区役所に建つ「春風馬堤曲」碑 |
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碑文には蕪村の「春風馬堤曲」の本文そのものでなく、、蕪村が門人(伏見に住む柳女と賀瑞の母子)に宛てた
1777年(安永6年)2月23日付の書簡の中で、「春風馬堤曲」を自ら解説しながら、故郷のことを語った文言の一部が刻まれている。
「春風馬堤曲 馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也。余、幼童之時、春日清和の日ニハ、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候。」 |