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史 跡
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遠城兄弟の墓
細川ガラシャ夫人の墓 所在地:
崇禅寺:大阪市東淀川区東中島5丁目 
越中井:大阪市中央区森之宮中央2丁目
カトリック玉造教会:大阪市中央区玉造2丁目
戦国武将細川忠興の夫人ガラシャは、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の次女で名はといった。 1563年(永禄6年)の生まれ、忠興とは16歳で結婚。父光秀の起した事件のため、一族は皆殺しとなるが、忠興は玉に手をかけるのに忍びず離縁し、丹後の味土野(現京丹後市弥栄町味土野)に幽閉した。
 3年後、豊臣秀吉は細川一族を味方に付けるため、玉を許し、夫婦は玉造に住むようになった。その後、玉はキリスト教の教義に引かれ、たまたま忠興が秀吉に従い九州へ遠征中、 ガラシャという洗礼名を得た。これは忠興の意に染まなかったが、ガラシャ夫人は改宗する事はなかった。
 1600年 (慶長5年)7月17日、関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしたが、ガラシャ夫人はこれに従わず、老臣小笠原小斉に胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。
 尚、忠興とガラシャ夫人が住んでいた玉造の屋敷跡に「越中井」が現存しており、大阪府の史跡に指定されている。近くに、彼の茶の湯の師匠である千利休の屋敷跡と利休井が屋敷もあったと伝わり、忠興は千利休の門人で三斎と名乗っていた。豊臣秀吉が北野の大茶会のとき三斎が使用したと伝わる井戸 が北野天満宮の一隅に残っている。井戸に縁のある武将である。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
ガラシャ夫人の墓 大阪市東淀川区東中島の崇禅寺にある「ガラシャ夫人の墓。墓(五輪塔)の傍に「香林院細川玉子之墓」の石碑が建つ。
石田三成軍勢に攻められ、焼け落ちた細川屋敷の焼け跡から、のザビエルの弟子オルガンチノがガラシア夫人とその殉死者の遺骨を拾い、細川家ゆかりの崇禅寺に埋葬したと伝わる。

「越中井」の遺跡
大阪市中央区森之宮にある「越中井」の遺跡。
この付近は大坂城城内三の丸で、「越中井」は細川越中守忠興の邸跡にあったものといわれている。
石碑正面の題字は徳富蘇峰の揮毫

ガラシャ夫人辞世の歌 石碑の正面は「越中井 細川忠興夫人
 秀林院 殉節之遺址」とあり、 側面には
 ガラシャ夫人の辞世といわれる「散り
 ぬべき時知りてこそ 世の中の 花も
 花なれ 人も人なれ」
の歌が彫られて
 いる。
 この碑は1934年(昭和9年)建立。
越中井遺跡
ガラシャ夫人のための「慰霊塔」 
ガラシャ夫人慰霊碑


上記の「越中井」の近くにあるカトリック玉造教会の庭にはガラシャ夫人のための「慰霊塔」が建てられている。
死後350年を記念して、1950年(昭和25年)に細川加羅紗頌徳会の建立




ガラシャ夫人像

 「聖マリア大聖堂」の前に、ガラシャ
 夫人と高山左近の像が建てられて
 いる。(写真はガラシャ夫人像)。

史跡-053/TTL-255

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