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史 跡
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遠城兄弟の墓 所在地: 
遠城兄弟の墓:大阪市東淀川区東中島5丁目 「崇禅寺」

生田伝八郎の墓:奈良県大和郡山市千日町 「常称寺」
大和郡山藩本多忠直の家来、遠城治左衛門安藤喜八郎の兄弟は、弟の宗左衛門が剣術の試合で 負かした生田伝八郎に闇討ちとなった仇を討とうとして、逃げていた伝八郎を探し当て、勝負を申し入れ、崇禅寺馬場で果し合いを約束した。
 果し合いは1715年(正徳5年)11月4日に 行われたが、伝八郎の門弟らのために返討ちになってしまった。討った生田伝八郎は、世間の批判に耐えかね、同月24日、郡山の西、矢田千日寺(常称寺)門前で自害した。
 この事件は赤穂浪士の討ち入り後のわずか12年後のことで大評判になり、特に竹田小出雲近松半二らの合作の浄瑠璃「敵討崇禅寺馬場」により広く世に知られるようになった。
 映画では、戦前に3回、戦後は1957年(昭和32年)、東映で『仇討崇禅寺馬場』(大友柳太郎主演)という映画が製作されている。子供の頃、近くの映画館で見たが、大友柳太朗が 生田伝八郎の役をやっていた。ストーリーはぜんぜん覚えていないが、丹下左膳のような白の着流しの衣装で、(もちろん片目、片腕ではないが)2刀流を使っていたのが印象に残っている。 従来の仇役を弁護するストーリにして、主役をやらせるのが当時の風潮だったのかもしれない。

[参考資料] 『大阪歴史散歩』 徳永信一郎著 創元社
遠城兄弟の墓 境内の一角にある遠城兄弟の墓。
当時の住職14世門啓天信岑和尚と元江戸町方与力で曽根崎明神町に住んでいた勝見宗春が遺体を葬り、墓碑を建立した。
墓は合墓で、右側に遠城治左衛門の戒名「剣樹心英居士」、左側に安藤喜八郎の戒名「刀山天雄居士」が刻まれてある。
墓の傍にある「遠城兄弟之塚」(大きい方)と「崇禅寺馬場遠城兄弟終焉之地」(手前の石碑)の碑。 遠城兄弟供養塚
崇禅寺馬場の碑 崇禅寺の西門の横に『崇禅寺馬場』の石碑が建っていた。この石碑は付近の住宅地にあったが、近年現在の所に移されている。
崇禅寺馬場は見事な松が並び、崇禅寺松原とも言われいたとのことだが、その昔菅原道真も、 この地の松の見事さに感嘆したとの話も伝わっており、江戸時代にはまだその風景が残っていたのであろう。

大和郡山市の常称寺に建つ生田伝八郎の墓
生田伝八郎の墓

奈良県大和郡山市千日町の常称寺の境内墓地にある生田伝八郎の墓。
お寺の説明板によると「生田伝八郎が遠城兄弟の義弟宗左衛門闇を謀殺したのは兵学の争論からのことである」とし、一般に流布している剣道の試合の遺恨のためとは異なる説が書かれてあった。
常称寺本堂。
伝八郎の姉が偶々、この寺の尼僧であったので、伝八郎の遺骸を葬り、遠城兄弟の冥福も併せ、祈ったと伝わる。

史跡-054/TTL-256

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