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史 跡
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ガラシャ夫人の墓へ
遠城兄弟の墓へ
足利義教の墓 所在地:大阪市東淀川区東中島5丁目 「崇禅寺」墓地
最寄駅:阪急京都線「崇禅寺」下車、駅前通り交番の手前の道を
北へ約400M
  足利義教は1441年(嘉吉元年)、「嘉吉(かきつ)の乱」で赤松満祐に殺害された足利6代将軍で、 その首級は崇禅寺に埋葬されている。義教は3代将軍義満の子で、1394年(応永元年)生まれ。
  1404年(応永10年)出家して青蓮院に入り、義円と称した。32歳で 天台宗座主となるが、1424年(正長元年)4代将軍足利義持の死去により(5代将軍義量は既に亡くなっていた)、岩清水八幡宮において籤引きで将軍後継者に選ばれ還俗した。義教は後に 「籤引き将軍」と揶揄された。
  1429年(永享元年)の将軍就任後は権力強化に努め、関東管領上杉憲実と対立した鎌倉公方足利持氏の討伐や一色義貫土岐持頼を謀殺するなど、 公武を問わず多数のものを厳罰に処した。身の危険を感じた赤松満祐は、自宅の宴に義教を招き、そこで暗殺した。義教の首級を携えて、自分の領地である播磨に逃げる途中、この地の観音堂に首を埋めたといわれる。もっとも、首級は播磨まで持ち帰り、その地の安国寺に祀ったとの話もある。
  崇禅寺には足利義教の墓と並んで細川ガラシャ夫人の墓があるほか、崇禅寺境内でだまし討ちとなった遠城兄弟の墓がある。
[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
足利義教の墓 義教の墓は五輪塔で、その傍に「足利義教公首塚」と碑が建てられている。
崇禅寺は凌雲山と号し、奈良時代の天平年間(729〜48)に行基菩薩によって創建されたと伝わる。
1442年(嘉吉2年)時の官領細川持賢(もちかた)より大伽藍と寺領の寄進をうけ、足利義教と細川家の菩提寺として再興された。
崇禅寺の伽藍は、1483年(文明15年)以来、度々兵火に遭い、慶安年間(1648〜1651年)に再建されたが、先の大戦の大空襲で再び灰燼に帰した。
現在の伽藍は1989年(平成元年)に再建されている。
崇禅寺本堂
摂津県豊崎県 県庁所在地跡の碑 崇禅寺の山門の傍に「摂津県豊崎県 県庁所在地跡」の碑が建っている。
1869年(明治2年)3月から8月まで当寺が、攝津県(のち豊崎県)の県庁舎に充てられていたため、大阪府と大阪市の史跡に指定されている。

史跡-052/TTL-254

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