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所在地:箕面市萱野5丁目 「芝東西坊島墓地内」
最寄駅:阪急箕面線「箕面」から阪急バスで「千里中央」行き、
「萱野三平」下車、南へ約100mで「萱野三平旧邸」あり、更に南へ
約200m、千里川の川沿いに墓地がある |
萱野三平の経歴については「萱野三平旧邸」のところで記したが、1701年(元禄14年)3月14日長矩の殿中刃傷のとき、第1陣の急使として、早水藤左衛門とともに、赤穂へ急行した。
3月14日午後2時ごろ江戸を出て、早駕籠で江戸と赤穂の距離155里(約610Km)を昼夜兼行で駆け抜け、4日昼夜半の19日の暁方には赤穂に到着しており、1日の距離は実に30里(約118Km)以上走ったことになる。当時は駕籠での道中は1日10里(約39Km)行くのが定めであったとのことから、道中は不眠不休だったと思われる。
途中、萱野郷の自宅前に差し掛かったとき、母の葬儀にあい、早水藤左衛門が「せめて最後の別れを」とすすめてくれたが、お役目の途中だからと断り、そのまま赤穂に急行した。
そして、城明け渡しと決定してから萱野に帰り、喪に服したと伝わる。三平の律儀な性格を表わすエピソードである。
三平の墓は、旧邸から少し離れた、地区の共同墓地に一族の墓とともにあるが、萱野家の菩提寺である豊中の新福寺にもある。
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[参考資料] 『正史 赤穂義士』 渡辺世祐著 光和堂 |
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墓地を取り囲むように桜が植えられており、丁度満開の時期であった。 |
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三平の墓と並んである「萱野春陽」の墓。
春陽は江戸後期の郷士で、文人。武芸・儒学に通じた。1834年(天保5年)没。56歳。 |
三平の墓のある一角には萱野一族の墓が並んでいる。
中には一字違いの「萱野一平」という人の墓もあった。 |